2015-09-30(Wed)
いつもご来訪ありがとうございます。
手直しした後バージョンだけど、以下、4回目をアップです。とりあえず、今書きあげてるのはここまで。
*****
黒とも見紛うような紫紺に緑の結晶があちこちで光を弾く。緑の結晶のけざやかさが白銀(しろがね)の花々を染めては消える。闇の静寂を慈しんだ主がかつて好んだ色彩は、今もなお結界を彩り色褪せることがない。
黒狼の濡れ羽色の艶やかな髪が、紫紺の色に闇を落とす。
吐く息が白く霧となって広がってゆくさまは、今更言うまでもなく結界が冷気に閉ざされている証だった。
白銀に凍りついた花々を一輪ずつ確認する。硬く凍りついた霜の奥深くに朱を宿す剣咲の薔薇と純白の百合に気を配りながら、砕けた花びらを見つけてはその花首を摘み取ってゆく。
かつては主が行っていたことがらをなるべくなぞるようにしながら黒狼はこの結界のなかで時を過ごしていた。
そうでなければ、辛すぎたのだ。
かつては多くの貴鬼奇でにぎやかだったこの結界が静寂(しじま)に閉ざされて久しい。主のものだったここを譲られてからの時とそれは同じだけの時である。
凍りついて曇り水晶のようになった小川を横切る。
手篭には手折った幾多の花首が黒狼の動きに揺れていた。
美しいものを好んだ主が全てを捨て去って、いったいどれほどの時が流れ去ったのか。
孤独に守りつづけてきた結界は、形を変えることなく静謐なままに存在する。それを乱すのは、黒狼の気配だけだった。
捨て去られた悲しみが黒狼の、ものに動じることを知らぬ胸を灼く。とうに慣れ親しんだその痛みに、彼の秀麗な顔は歪むことさえも忘れ果てた。だというのに、主の顔と彼に捨てられたという事実だけは、どうやっても忘れることができないのだ。
「主さま」
と、つぶやくのは艶めいた声。
慕わしさに狂う。
空を見上げて放つのは朗々と響く澄んだ遠吠え。
涙に歪んだ視界いっぱいに紫紺と緑とが滲んだ。
と。
しゃらしゃらと花々が揺れた。それが何を意味するのか、それこそを待ちわびていた黒狼に判らぬはずもなく。風もないこの場所で花々が揺れたのを見るとほぼ同時に、黒狼の蜜色の双眸が光を宿した。それは、しかし、純粋な喜びではなかった。心の痛みに澄んでいた蜂蜜の色が、不思議なことに濁ってゆく。しかし、それを見るものはここにはいない。
「ああ」
と。
「ああ、ああ、ああ」
と。
黒狼の白い喉が結界を震わせる。
甘く苦いものを孕んだその遠吠えは、紫紺の闇に吸い込まれ、やがて儚く消えてゆく。儚く消えたその後に、白い美貌に宿されたものは、ここに見るものがいれば心の底から相手を震えさせる微笑だった。
どれくらいぶりの”外”だろう。
訪れるものも絶えて久しいささやかな社の色褪せた鳥居を背に、黒狼は撫でるようにして空気を嗅ぐ。
彼の今の姿は黒い大きな犬、いや、山犬である。元々が山犬の奇である黒狼にはこの姿のほうが匂いや気配をたどりやすいのだ。
黒狼は方角を確認すると獣道を力強く駈けはじめたのである。
ガラス一枚隔てて目の前で繰り広げられる酸鼻極まる光景に、眉間に皺を刻む。町中に入りすでに獣形を解いて久しかった。
サンルームを見渡せるものの中側からは見えない死角に立ち、黒狼は気配を絶っていた。
いずれも黒狼と同じ奇に甚振られている三人(みたり)は、純粋な人間に他ならない。ならば、考えるまでもなくあれらは違う。
では、彼の求めるものはどこに?
巡らせた視線にやがて、求めるものが映される。
サンルームの中央に据えられている艶光も美しいピアノの上で奇女に縛められている小さな姿。今にも喰らわれようとしている力無い姿に、当然と嘲る心地が湧き上がる。
結界を捨て、全てを捨てた、主である。あまつさえひととしての生を、ひととしての恋をこそを求めて腹心であった彼までもを捨て去った主たる貴の存在を遠目に湧き上がるのは、慕わしさと尊敬と畏怖、それと狂おしいほどの小昏い憎悪にも似たなにかだった。
主が奇女に嬲られている。
稚いこどもの姿をして。
あれほど望んだひとの姿をして。
なればこそ邪魔はなるまいと、憎悪にも似たたぎりたつもののささやきに黒狼は耳を傾けたのだ。
黒狼は見ていた。
尋が奇女に嬲られているさまを。
尋が涙をながし叫ぶさまを。
仄暗い喜びに心臓を震わせながら。
しかし、それもいつまでもはつづかなかった。
微熱にも似た熱がぞろりと下腹に蠢いた。その熱の正体を、黒狼は理解していた。
あれは間違いなく主さまだ。
そうでなければならないと心がざわめくというのに。なぜこんな不埒な熱が湧き上がるのか。確かにあの時、黒狼を捨てたあの時だとて主さまを恋い慕ってはいたが、それはあくまでも主さまとしてだった。そこに不埒な熱の介在する余地はなかった。
今目の前にいる主さまは年端もゆかない幼児である。だというのに、己の下腹を熱くたぎらせるものは、紛れもない情欲なのだ。
苦しい。
主さまの涙に、悲鳴に、情欲が煽られる。情欲は霧めいたなにかとなり黒狼の心を冒していった。
くらくらと視界が揺らぐ。
早鐘のように聾がわしい鼓動を刻む心臓が情欲ゆえなのか、憎悪ゆえなのか、もはやわからない。
視界が赤く染まっていた。
その朱を、少しこもったドルイドベルめいた音と一呼吸遅れた悲鳴が追い払った。
霧が晴れてゆく。
邪念の追い払われた視界に、奇女に襲い掛かられる尋が映る。
足首を掴まれさかしまにぶら下げられている。
「主さま」
と、それまでの動揺を拭い去った声が、涼やかに放たれた。
「遅うなり申し訳ございません」
と、黒狼がサンルームの窓から姿を現した途端、奇女らがその動きを止めた。
奇女らの欲望を滴らせたまなざしが、黒狼を補足する。
そのあからさまなまでの欲望が、彼の怒りを煽った。
「おまえたち」
怒りは熱とならず、氷結地獄さながらとなった。
奇女らが文字通りその場に凍りつく。
時までもが凍りついたような錯覚があった。
黒狼に容赦をする気はなかった。
奇女らが襲っていたのは、姿形が変わったとはいえ、まぎれもなく彼の主なのだ。
彼の主でなければならない存在なのだ。
黒狼が腕を振る。
彼の腕の一振りで、他愛なく奇女らは弾けて散った。
悲鳴もなかった。
赤く巨大な花火のように、火花の代わりに血を撒き散らして奇女らはその命を終えたのだ。
やがて止んだ血の雨の中で、床に尻餅をついた尋が腰を抜かしている。
涙と血とにまみれた顔は哀れを通り越し、滑稽ですらあった。それでも、この幼子はまぎれもなく主さまなのだと。そうでなければならないのだと。
血まみれの絨毯の上に転がるものを拾い上げ、
「お懐かしゅう。主さま」
自然とからだが拝跪の姿勢を選んでいた。
投げ出された裸足の足が、尋の目の前にある。足首から血をにじませるそれに触れるのに、不思議なほどの勇気が必要だった。
何年ぶりの主さまだろう。
手が、全身が震えてくる。しかしそれも尋の足に触れた途端、嘘のように止んだ。
逆に、尋のからだが息を吹き返したかのように震えはじめる。
「遅うなり申し訳ございません」
足の汚れを拭い去り傷口ににじむ血を舌で舐めとり上体をもたげる。
「このような傷まで。ああ。おいたわしいこと」
足首よりも深い首筋の傷に触れる。
「むさい目にお合わせして申し訳ございません」
ぬるりと血を拭う。
舐める。
ぬるりぬるりと、掌に舌に伝わってくる血越しの肌の感触に、自然と黒狼の目が細まる。
「厭わしいものどもの血は拭い取らせていただきました。あとは、こちらを」
開いた掌の上、ころりと転がるネックレスのトップがドルイドベルのように涼やかな音色を奏でた。
尋が凝視する先で、黒狼が手をかざす。それだけで千切れていた鎖はもと通りに繋がり、血の汚れもまた落とされる。
「それ………」
ようよう息を吹き返したかのように手をのばしかけた尋の先で、
「どうぞ」
ゆらりと揺らめくように黒狼は動き、ネックレスを尋の首にかけたのだった。
*****
寝殿に尋の寝床をしつらえ、横たえる。
結界内に入る時、意識を失った尋には何の異変も見られなかった。結界が侵入者を拒む気色すらなかった。
ああ、やはり。と、黒狼のほほが引き連れる。
確信はあったものの、彼の知る主と尋とはあまりにも違いすぎたのだ。
自分を見る目には、ただ見知らぬものを見る無関心と警戒心ばかりが宿っていた。
しかし、結界は、尋を主だと認めている。
それは、黒狼の心と同調したかのような見事なまでのタイムラグのなさだった。
「主さまが主さまであられるからですね」
濡れ縁に腰を下ろし、あれほどまでの凍結が解けてゆくさまを眺めやる。
あれほど凍てついていた結界は、今や寝雪の解けゆく初春めいた気配を見せている。
白銀に覆われていた紅薔薇や白百合が霜解けあとの雫をしたたらせ、煙水晶をおもわせていた小川でさえも、せせらぎを見せ奏でていた。
「私の心のなんと他愛のないことか」
口角が引き連れる。
*****
「なんと、おっしゃられましたか」
顔を上げ、主を見上げた。
主のまとう今振りの背広姿は寝殿造りのこの屋敷にはひどく不釣り合いなものと黒狼には思えた。
尊い貴は空を見上げていた。視線を与えられない状況に不安がつのってゆく。
「私はここを去ろうと思う」
そのままで、白い喉頸を顎下のみを見せたまま、厳とした声音が告げる。
「私をお連れくださいますか?」
ひどく身勝手だが、それであれば、構わないというのが黒狼の本心だった。
幼い日、主に拾われなければ死んでいた。
狼のように強くあれと、黒狼と名をくれた。
仕えることを許してくれた。
永遠に、主に仕えるのだと信じて疑うことはなかった。
だというのに。
「否」
短くも疑いようもない拒絶に、血の気が引く。
ざんざと揺れる松の枝がたてるかのような耳鳴りに、周囲が回って見えた。
「他のものたちはそれぞれ望みをかなえた。すぐにここを去ろう」
「ならば!」
急く心のままに叫んでいた。
しかし、
「ならぬ」
と、主の拒絶は強固だった。
「黒狼よ」
やわらかであるのに拒否を許さない声に、目頭が熱くなってゆくのを堪えることができなかった。
見下ろされて、心臓が弾けるように震えた。
幼い頃に頭を撫でてくれた白い手が、やさしく頭に置かれる。
「私は恋をしたのだよ」
思いもよらぬことばだった。
「驚いているな」
主の黒いまなざしがほんの少しだけ和らいだ。
「我も驚いたものよ」
主の人称が常の”我”に変わった。
庭に降りる主の後を追う。
庭を横切り小川を渡り、白い花と紅の花の咲き乱れる場所にたどり着く。
なんとも言い難い匂いが黒狼の鼻腔を満たす。
ここは、と、黒狼は思い至る。
立ち入りを禁ぜられたこの場所に咲く花は、すべて主が手ずから育てていたのだ。
「おいで」
と、主が手招くのに黒狼は従った。
「この百合の名をカサブランカと言う。白百合、あまたある中にある意味のひとつを純潔と」
一茎手折り、歌うように言う。
「この薔薇の名をメリナ。同じく熱烈な恋と花言葉にある」
花首を軽く撫で、やはり歌うように言う。
「まずはカサブランカ」
「そうして遂には、メリナを贈った」
主の面に、いわく言い難い表情が宿る。
「彼女は我が心の丈を受け取った。そうして………」
主の双眸が細まった。
「ならば! 主さまの元へお連れになられればよいではありませんか」
思わず、主のもの思いを破っていた。
破らずにはいられなかったのだ。
「ならぬ。それはならぬ」
「なぜです!」
あってはならない。
主に逆らうなど。
しかし、どのみち、この身は捨てられるのだ。
ならばいいではないか。
そんな思いが黒狼の心の中には渦巻いていた。
「なぜ、主さまがここを去らねばならないのです」
「我らをお捨てになられねばならないのです」
黒狼の蜂蜜色の瞳と主の黒曜石の瞳とが相交じる。
「黒狼よ」
ふっと、主の表情が笑みに崩れた。
「そなたはまだ若い。悠久を在った我が心をわかるまい」
「我らが最期を知るまいよ」
主が紡ぐ最期………との響きに、黒狼の瞳がひときわ大きく瞠らかれる。
「我が心が、選んだのだ」
「最期の時を彼女と共にありたいと」
「なればこそ、我はここを去らねばならない」
主は選んでしまったのだ。
主の黒曜石の瞳は、黒狼に向けられてはいたが、黒狼の知らない女を見ているのだ。
女との最期の時を。
「我が身もまた、ひととならねばならない」
「主さま………」
この身は、主の最期の時から切り捨てられるのだ。
主からの拒絶を痛いほどに感じる。
絶望が熱い塊となって喉をせり上がる。
「黒狼よ。この結界をそなたに残そう」
いらないと、どんなに叫びたかったろう。
しかし、熱い塊が喉の奥にわだかまり、声を出すことを許さなかった。
「そうして今ひとつ」
主の声に、黒狼の全身が鳥肌立つ。
ある予感に、黒狼の首が横に打ち振られる。
主の優美な手がその胸元を彷徨うのを、信じられない思いで凝視しつづける。
ずぶり−−−と厭な音がして、主の手がその胸を貫いているさまが見えた。
粘着的な水音と共に引きずり出されるのが何なのか、わからぬはずがなかった。
イヤだと。
イヤなのですと。
首を左右に振りつづけながら、それでも、黒狼は後退ることさえできなかった。
涙があふれる。
そんなものは、欲しくないのです!
なのに、主は無情にも手にしたそれを黒狼の胸へと突き入れたのだ。
「我が心の半分をそなたに与えよう」
ぬらぬらと赤黒い主の心臓が胸へと収まる苦痛に、黒狼のからだが大きく仰け反った。
***** なんか黒狼が受けっぽいのが気になりますが。あくまで黒狼は攻め! はい。まぁこの主さまは過去の主さまだからね。
少しでも楽しんでいただけると嬉しいな。
手直しした後バージョンだけど、以下、4回目をアップです。とりあえず、今書きあげてるのはここまで。
*****
黒とも見紛うような紫紺に緑の結晶があちこちで光を弾く。緑の結晶のけざやかさが白銀(しろがね)の花々を染めては消える。闇の静寂を慈しんだ主がかつて好んだ色彩は、今もなお結界を彩り色褪せることがない。
黒狼の濡れ羽色の艶やかな髪が、紫紺の色に闇を落とす。
吐く息が白く霧となって広がってゆくさまは、今更言うまでもなく結界が冷気に閉ざされている証だった。
白銀に凍りついた花々を一輪ずつ確認する。硬く凍りついた霜の奥深くに朱を宿す剣咲の薔薇と純白の百合に気を配りながら、砕けた花びらを見つけてはその花首を摘み取ってゆく。
かつては主が行っていたことがらをなるべくなぞるようにしながら黒狼はこの結界のなかで時を過ごしていた。
そうでなければ、辛すぎたのだ。
かつては多くの貴鬼奇でにぎやかだったこの結界が静寂(しじま)に閉ざされて久しい。主のものだったここを譲られてからの時とそれは同じだけの時である。
凍りついて曇り水晶のようになった小川を横切る。
手篭には手折った幾多の花首が黒狼の動きに揺れていた。
美しいものを好んだ主が全てを捨て去って、いったいどれほどの時が流れ去ったのか。
孤独に守りつづけてきた結界は、形を変えることなく静謐なままに存在する。それを乱すのは、黒狼の気配だけだった。
捨て去られた悲しみが黒狼の、ものに動じることを知らぬ胸を灼く。とうに慣れ親しんだその痛みに、彼の秀麗な顔は歪むことさえも忘れ果てた。だというのに、主の顔と彼に捨てられたという事実だけは、どうやっても忘れることができないのだ。
「主さま」
と、つぶやくのは艶めいた声。
慕わしさに狂う。
空を見上げて放つのは朗々と響く澄んだ遠吠え。
涙に歪んだ視界いっぱいに紫紺と緑とが滲んだ。
と。
しゃらしゃらと花々が揺れた。それが何を意味するのか、それこそを待ちわびていた黒狼に判らぬはずもなく。風もないこの場所で花々が揺れたのを見るとほぼ同時に、黒狼の蜜色の双眸が光を宿した。それは、しかし、純粋な喜びではなかった。心の痛みに澄んでいた蜂蜜の色が、不思議なことに濁ってゆく。しかし、それを見るものはここにはいない。
「ああ」
と。
「ああ、ああ、ああ」
と。
黒狼の白い喉が結界を震わせる。
甘く苦いものを孕んだその遠吠えは、紫紺の闇に吸い込まれ、やがて儚く消えてゆく。儚く消えたその後に、白い美貌に宿されたものは、ここに見るものがいれば心の底から相手を震えさせる微笑だった。
どれくらいぶりの”外”だろう。
訪れるものも絶えて久しいささやかな社の色褪せた鳥居を背に、黒狼は撫でるようにして空気を嗅ぐ。
彼の今の姿は黒い大きな犬、いや、山犬である。元々が山犬の奇である黒狼にはこの姿のほうが匂いや気配をたどりやすいのだ。
黒狼は方角を確認すると獣道を力強く駈けはじめたのである。
ガラス一枚隔てて目の前で繰り広げられる酸鼻極まる光景に、眉間に皺を刻む。町中に入りすでに獣形を解いて久しかった。
サンルームを見渡せるものの中側からは見えない死角に立ち、黒狼は気配を絶っていた。
いずれも黒狼と同じ奇に甚振られている三人(みたり)は、純粋な人間に他ならない。ならば、考えるまでもなくあれらは違う。
では、彼の求めるものはどこに?
巡らせた視線にやがて、求めるものが映される。
サンルームの中央に据えられている艶光も美しいピアノの上で奇女に縛められている小さな姿。今にも喰らわれようとしている力無い姿に、当然と嘲る心地が湧き上がる。
結界を捨て、全てを捨てた、主である。あまつさえひととしての生を、ひととしての恋をこそを求めて腹心であった彼までもを捨て去った主たる貴の存在を遠目に湧き上がるのは、慕わしさと尊敬と畏怖、それと狂おしいほどの小昏い憎悪にも似たなにかだった。
主が奇女に嬲られている。
稚いこどもの姿をして。
あれほど望んだひとの姿をして。
なればこそ邪魔はなるまいと、憎悪にも似たたぎりたつもののささやきに黒狼は耳を傾けたのだ。
黒狼は見ていた。
尋が奇女に嬲られているさまを。
尋が涙をながし叫ぶさまを。
仄暗い喜びに心臓を震わせながら。
しかし、それもいつまでもはつづかなかった。
微熱にも似た熱がぞろりと下腹に蠢いた。その熱の正体を、黒狼は理解していた。
あれは間違いなく主さまだ。
そうでなければならないと心がざわめくというのに。なぜこんな不埒な熱が湧き上がるのか。確かにあの時、黒狼を捨てたあの時だとて主さまを恋い慕ってはいたが、それはあくまでも主さまとしてだった。そこに不埒な熱の介在する余地はなかった。
今目の前にいる主さまは年端もゆかない幼児である。だというのに、己の下腹を熱くたぎらせるものは、紛れもない情欲なのだ。
苦しい。
主さまの涙に、悲鳴に、情欲が煽られる。情欲は霧めいたなにかとなり黒狼の心を冒していった。
くらくらと視界が揺らぐ。
早鐘のように聾がわしい鼓動を刻む心臓が情欲ゆえなのか、憎悪ゆえなのか、もはやわからない。
視界が赤く染まっていた。
その朱を、少しこもったドルイドベルめいた音と一呼吸遅れた悲鳴が追い払った。
霧が晴れてゆく。
邪念の追い払われた視界に、奇女に襲い掛かられる尋が映る。
足首を掴まれさかしまにぶら下げられている。
「主さま」
と、それまでの動揺を拭い去った声が、涼やかに放たれた。
「遅うなり申し訳ございません」
と、黒狼がサンルームの窓から姿を現した途端、奇女らがその動きを止めた。
奇女らの欲望を滴らせたまなざしが、黒狼を補足する。
そのあからさまなまでの欲望が、彼の怒りを煽った。
「おまえたち」
怒りは熱とならず、氷結地獄さながらとなった。
奇女らが文字通りその場に凍りつく。
時までもが凍りついたような錯覚があった。
黒狼に容赦をする気はなかった。
奇女らが襲っていたのは、姿形が変わったとはいえ、まぎれもなく彼の主なのだ。
彼の主でなければならない存在なのだ。
黒狼が腕を振る。
彼の腕の一振りで、他愛なく奇女らは弾けて散った。
悲鳴もなかった。
赤く巨大な花火のように、火花の代わりに血を撒き散らして奇女らはその命を終えたのだ。
やがて止んだ血の雨の中で、床に尻餅をついた尋が腰を抜かしている。
涙と血とにまみれた顔は哀れを通り越し、滑稽ですらあった。それでも、この幼子はまぎれもなく主さまなのだと。そうでなければならないのだと。
血まみれの絨毯の上に転がるものを拾い上げ、
「お懐かしゅう。主さま」
自然とからだが拝跪の姿勢を選んでいた。
投げ出された裸足の足が、尋の目の前にある。足首から血をにじませるそれに触れるのに、不思議なほどの勇気が必要だった。
何年ぶりの主さまだろう。
手が、全身が震えてくる。しかしそれも尋の足に触れた途端、嘘のように止んだ。
逆に、尋のからだが息を吹き返したかのように震えはじめる。
「遅うなり申し訳ございません」
足の汚れを拭い去り傷口ににじむ血を舌で舐めとり上体をもたげる。
「このような傷まで。ああ。おいたわしいこと」
足首よりも深い首筋の傷に触れる。
「むさい目にお合わせして申し訳ございません」
ぬるりと血を拭う。
舐める。
ぬるりぬるりと、掌に舌に伝わってくる血越しの肌の感触に、自然と黒狼の目が細まる。
「厭わしいものどもの血は拭い取らせていただきました。あとは、こちらを」
開いた掌の上、ころりと転がるネックレスのトップがドルイドベルのように涼やかな音色を奏でた。
尋が凝視する先で、黒狼が手をかざす。それだけで千切れていた鎖はもと通りに繋がり、血の汚れもまた落とされる。
「それ………」
ようよう息を吹き返したかのように手をのばしかけた尋の先で、
「どうぞ」
ゆらりと揺らめくように黒狼は動き、ネックレスを尋の首にかけたのだった。
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寝殿に尋の寝床をしつらえ、横たえる。
結界内に入る時、意識を失った尋には何の異変も見られなかった。結界が侵入者を拒む気色すらなかった。
ああ、やはり。と、黒狼のほほが引き連れる。
確信はあったものの、彼の知る主と尋とはあまりにも違いすぎたのだ。
自分を見る目には、ただ見知らぬものを見る無関心と警戒心ばかりが宿っていた。
しかし、結界は、尋を主だと認めている。
それは、黒狼の心と同調したかのような見事なまでのタイムラグのなさだった。
「主さまが主さまであられるからですね」
濡れ縁に腰を下ろし、あれほどまでの凍結が解けてゆくさまを眺めやる。
あれほど凍てついていた結界は、今や寝雪の解けゆく初春めいた気配を見せている。
白銀に覆われていた紅薔薇や白百合が霜解けあとの雫をしたたらせ、煙水晶をおもわせていた小川でさえも、せせらぎを見せ奏でていた。
「私の心のなんと他愛のないことか」
口角が引き連れる。
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「なんと、おっしゃられましたか」
顔を上げ、主を見上げた。
主のまとう今振りの背広姿は寝殿造りのこの屋敷にはひどく不釣り合いなものと黒狼には思えた。
尊い貴は空を見上げていた。視線を与えられない状況に不安がつのってゆく。
「私はここを去ろうと思う」
そのままで、白い喉頸を顎下のみを見せたまま、厳とした声音が告げる。
「私をお連れくださいますか?」
ひどく身勝手だが、それであれば、構わないというのが黒狼の本心だった。
幼い日、主に拾われなければ死んでいた。
狼のように強くあれと、黒狼と名をくれた。
仕えることを許してくれた。
永遠に、主に仕えるのだと信じて疑うことはなかった。
だというのに。
「否」
短くも疑いようもない拒絶に、血の気が引く。
ざんざと揺れる松の枝がたてるかのような耳鳴りに、周囲が回って見えた。
「他のものたちはそれぞれ望みをかなえた。すぐにここを去ろう」
「ならば!」
急く心のままに叫んでいた。
しかし、
「ならぬ」
と、主の拒絶は強固だった。
「黒狼よ」
やわらかであるのに拒否を許さない声に、目頭が熱くなってゆくのを堪えることができなかった。
見下ろされて、心臓が弾けるように震えた。
幼い頃に頭を撫でてくれた白い手が、やさしく頭に置かれる。
「私は恋をしたのだよ」
思いもよらぬことばだった。
「驚いているな」
主の黒いまなざしがほんの少しだけ和らいだ。
「我も驚いたものよ」
主の人称が常の”我”に変わった。
庭に降りる主の後を追う。
庭を横切り小川を渡り、白い花と紅の花の咲き乱れる場所にたどり着く。
なんとも言い難い匂いが黒狼の鼻腔を満たす。
ここは、と、黒狼は思い至る。
立ち入りを禁ぜられたこの場所に咲く花は、すべて主が手ずから育てていたのだ。
「おいで」
と、主が手招くのに黒狼は従った。
「この百合の名をカサブランカと言う。白百合、あまたある中にある意味のひとつを純潔と」
一茎手折り、歌うように言う。
「この薔薇の名をメリナ。同じく熱烈な恋と花言葉にある」
花首を軽く撫で、やはり歌うように言う。
「まずはカサブランカ」
「そうして遂には、メリナを贈った」
主の面に、いわく言い難い表情が宿る。
「彼女は我が心の丈を受け取った。そうして………」
主の双眸が細まった。
「ならば! 主さまの元へお連れになられればよいではありませんか」
思わず、主のもの思いを破っていた。
破らずにはいられなかったのだ。
「ならぬ。それはならぬ」
「なぜです!」
あってはならない。
主に逆らうなど。
しかし、どのみち、この身は捨てられるのだ。
ならばいいではないか。
そんな思いが黒狼の心の中には渦巻いていた。
「なぜ、主さまがここを去らねばならないのです」
「我らをお捨てになられねばならないのです」
黒狼の蜂蜜色の瞳と主の黒曜石の瞳とが相交じる。
「黒狼よ」
ふっと、主の表情が笑みに崩れた。
「そなたはまだ若い。悠久を在った我が心をわかるまい」
「我らが最期を知るまいよ」
主が紡ぐ最期………との響きに、黒狼の瞳がひときわ大きく瞠らかれる。
「我が心が、選んだのだ」
「最期の時を彼女と共にありたいと」
「なればこそ、我はここを去らねばならない」
主は選んでしまったのだ。
主の黒曜石の瞳は、黒狼に向けられてはいたが、黒狼の知らない女を見ているのだ。
女との最期の時を。
「我が身もまた、ひととならねばならない」
「主さま………」
この身は、主の最期の時から切り捨てられるのだ。
主からの拒絶を痛いほどに感じる。
絶望が熱い塊となって喉をせり上がる。
「黒狼よ。この結界をそなたに残そう」
いらないと、どんなに叫びたかったろう。
しかし、熱い塊が喉の奥にわだかまり、声を出すことを許さなかった。
「そうして今ひとつ」
主の声に、黒狼の全身が鳥肌立つ。
ある予感に、黒狼の首が横に打ち振られる。
主の優美な手がその胸元を彷徨うのを、信じられない思いで凝視しつづける。
ずぶり−−−と厭な音がして、主の手がその胸を貫いているさまが見えた。
粘着的な水音と共に引きずり出されるのが何なのか、わからぬはずがなかった。
イヤだと。
イヤなのですと。
首を左右に振りつづけながら、それでも、黒狼は後退ることさえできなかった。
涙があふれる。
そんなものは、欲しくないのです!
なのに、主は無情にも手にしたそれを黒狼の胸へと突き入れたのだ。
「我が心の半分をそなたに与えよう」
ぬらぬらと赤黒い主の心臓が胸へと収まる苦痛に、黒狼のからだが大きく仰け反った。
***** なんか黒狼が受けっぽいのが気になりますが。あくまで黒狼は攻め! はい。まぁこの主さまは過去の主さまだからね。
少しでも楽しんでいただけると嬉しいな。
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