2006-02-12(Sun)

更木という浪人の恋人だという女性は、お郁に一部屋を提供してくれた。
二階にあるその部屋で、お郁は、ただ、座っていた。
腰高窓の障子から、日の光がぼんやりと差し込む。
桟に腕を乗せて、顔を乗せる。
これから、どうしよう―――――
いつまでも、ここでいるわけにもいかない。
衝動的に家を出たけれど、どうすればいいのか、わからない。
自分は、存在と一緒で、どこまでも、中途半端なのだ。
父と信じていた男に対する感情すら、中途半端だった。憎いと思ったり、懐かしいと思ったり。
思えば思うほど、よみがえるのは、やさしくされた思い出ばかりで。
どうすればいいのか、わからなくなった。
今も、わからないままだ。
まるで、父の死が、父のすべてを、浄化したかのようだった。
自分が男なのだと、知ったのは、あのときだ。
気がつけば、女として育てられていた。
色鮮やかな振袖、きつく結い上げられる帯。桃割れに結った髪に挿される花簪。それらが本当は自分にふさわしいものではないのだと知ったのは、父がつれてきた祥瓊と遊ぶようになってからだった。
それが男女の違いだと、はっきりわかってはいなかったが、それでも、何かが違うのだと、悩んだ。
体が弱いからと、家の敷地から出してもらえない日々で、変だとはっきり感じたのは、
祥瓊のまろやかな胸にうろたえるようになってからだ。
誰に相談ができただろう。
祥瓊に変だと思われたくなかった。
祥瓊の甘い匂いに、ただでさえ、胸が苦しくなるのに、こんなこと、言えやしない。
悩みは深くて、苦しかった。
吐き出す先がないことが、辛くてならなかった。
その上に、新たな、苦悩が、襲ってきた。
新たな苦悩が、それ以外の悩みを解消してくれた。
自分は、決して異常ではなかったのだ。けれど、これからの日々は、どうなのだろう。
はじめて男に抱かれた翌朝、自分を清めてくれたのは、父だった。
すまない――と。
一度だけではすまないのだと、暗澹とするだろうこれからの日々を口にしながら、父は、涙を流していた。
そうして、教えてくれたのだ。今になって、父はあくまで、隠し事をしていたのだとわかるけれど。自分は、男として存在を許されていないのだと。男に戻れば、殺される。殺されないためにも、これから先、浅野屋という篭の中で、女として生きてゆくしかないのだと。男は、自分につけられている見張りなのだと。そう、父は、教えてくれた。
男は侍で、父は商人だった。
父が男に逆らえなかったことは、考えるまでもない。
なぜ、男が自分にあんなことをするのか、わからなかった。
松林で、男は、ただ笑っていた。禍々しい笑いを顔に貼りつけて見下ろしてくる男の顔は、記憶にあった。あのときよりも歳をとった男が、怖ろしい光を目に宿す。それだけで、ゾッと、動けなくなる。ただ、男のなすがままにされる自分に、どうしようもなくなるのだ。
昨日、何かしていないといたたまれなくて、母屋の父の部屋に入った。
もうずいぶんと、久しぶりだった。
父の匂いは薄らいでいた。
幼い頃は、ここで一緒に寝てくれたのだ。祥瓊が遊び相手になる少し前までだったけれど。
「お父さん」
結局、自分には、憎めない。
恨めない。
慕っていたのだ。
大好きだった。
今だって………。
父がよく座っていた、床の間を背にした場所に、お郁は、腰を下ろした。
ふと脇を見る。
ここの机に向かって、よく、父はなにかを書いていた。
使い込まれた漆塗りの机のうえには、帳面と、硯箱が、生前のままに置かれている。
硯箱の蓋を開けた。
水差しの中には、やはり、一滴の水も入ってはいない。
水をもらってこようと立ち上がったときだった。
「なにをしてらっしゃいます」
廊下側の襖が開いて、大番頭が立っていた。
「べつに」
大番頭は、苦手だ。
今は、昔ほどではないけれど、それでもやはり、怖いのは、変わらない。
なにを考えているのかわからない細い目と、時折り見せる、ひとを嘲笑っているかのような、笑いが怖いのだ。
なにもかも、彼には知られている。だから、そう思ってしまうのかもしれない。
じっとりと見下ろされて、
「どいて」
脇を通り抜けようとした。
避けてくれると見えた動きが、実は、騙しだった。
腕を掴まれて、引き寄せられた。
顎を掴まれて、持ち上げられる。
振り払おうとして、叶わなかった。
「はなしなさい」
見上げた先に、ねっとりとした色を宿す目があった。
「こうして見ると、お嬢さんもなかなか見れるじゃありませんか」
あの方もなんと物好きなと、思っていたのですがね。
続けられたことばに、背中が、震えた。
「いやです」
「これから先、浅野屋は私がいないとやっていけませんよ。これくらい、安いもんでしょう」
言いのけざまくちづけられて、お郁は、全身が熱くなるのを感じた。
「とても、感じやすい………あの方の執着するからだですから、私はこれ以上何もしませんが」
楽しそうに笑いながら、力の抜けたお郁のからだから、手を離す。
ずるずると、お郁は畳の上に頽おれた。
「今日はおいでになられるでしょうから、離れでおとなしくお待ちになられたほうがよろしいですよ」
そう言い置いて、大番頭は、部屋を出て行った。
いつ、どうやって、離れに戻ったのか、お郁は覚えてはいなかった。
少し前までは、父のことを慕わしいと思っていた。それなのに、憎しみが湧きあがってくる。くるくると変わる父への感情に、どうすればいいのか、お郁は、自分でもわからなかった。
気がつけば、男に背後から抱きすくめられていた。
記憶に残らないような遣り取りの後、お郁は、男に部屋に連れ込まれたのだ。
「あなたは、どうして、わたしを、抱くんです」
ぽつりと、つぶやいた。
「気に入ったからだ」
返事が返されるとは思わなかった。
解かれた帯が、からだにそって落ちる音がする。
とても、耳に痛い。
「………からだが、ですか」
お郁の声はあまりに小さすぎて、男の耳には届かなかった。
男が、抜け道を通って、帰ってゆく。
月明かりに照らし出されるその背中を見送りながら、目と鼻の先に、逃げ道はあるのに――なぜ、自分は、逃げなかったのだろうと、お郁は、今更ながらの疑問を感じた。
人前に出るのが恥ずかしいからだ。
出かけなければならないたび、誰かに、実は男だと見破られやしないかと、不安を覚えた。
女ではないのに、女として育てられて、今更、どうやって、男に戻れるのだろう。
第一、男に戻るというよりも、男になるとしか思えない。それに、男になったら、自分は、殺されるのだ。
自分を抱く、あの男に。
理由は知らない。
理由すら知らず、殺されるのは、イヤだった。
しかし、郁也には、遺言にあった結婚後に渡される遺産――それが、関わっているだろう予想があった。
『開けますか』
三原を婿に迎えた翌日、大番頭が持ってきた、封印までされた文箱を、
『開けません』
と、言って、押しやった。
これを欲しがっていると信じ込んでいた大番頭と男に対する、嫌がらせのつもりだった。
『賢明かもしれませんね』
そう言われて、わからなくなった。
けれど、逃げだろうとなんだろうと、これ以上重荷を負いたくなかった。
だから、
『もとにもどしてください』
と、大番頭に渡したのだった。
なにをどうすればいいのか、もう、わからなかった。
ただ、知っておいたほうがよかったのかもしれない。今になって、そう思った。
だから、
『なら、これをどうぞ』
と、引き換えのように渡された鍵を、お郁は、取り出したのだ。
遺言書の場所なら、わかる。
この鍵が合うところは、一箇所だけである。
お郁は、母屋に忍び込んだ。
朝訪ねて行った父の部屋、その床の間の掛け軸の裏。
お郁は、部屋に行灯を灯して、掛け軸の裏の鍵穴に、鍵を合わせた。
ゴトリと重い音がして、厚い戸が押し出される。
ぽっかり開いた刳り抜き穴には、あの日見た文箱がひとつ。
取り出して、お郁は、封印を破った。
そうして、お郁は、理由を知ったのだ。
まるでそれ自体が毒でもあったかのように、お郁はそれを、投げ捨てた。
畳の上、たった一枚の古びた和紙が、ほのめく行灯の火に照らし出されている。
「これだけ」
ポツリとつぶやいた。
「こんなものっ」
欲しいと思ったこともない。
考えたことすらなかった。
破り捨ててしまおうか。
ふと、考えた。
しかし―――――
「狂ってる」
泣き笑いの表情で、お郁は、それを取り上げた。そうして、懐にしまう。
文箱は、元通り、掛け軸の裏にもどして、鍵をかけた。
これからどうしようか。
離れに戻る途中、お郁は、魅かれるように、築山の裏へと近づいた。そうして、そのまま、飲み込まれるように、抜け穴に足を踏み入れたのだった。
そろそろ夜明けだ。
もうひと時もすれば、下働きから動き始めるだろう。
はばかりに目覚めた小司馬は、それに気づいた。
「おや」
ぼんやりとした灯は、
「旦那様のお部屋だな」
泥棒――が、行灯を灯しはすまい。
お郁お嬢さんだろうか――と、足音を忍ばせた。
今朝の出来事は、我ながら、性質の悪い冗談だった。否。そう思わなければ、自分を保てない。
抗えなかったのだ。
お郁が通り過ぎようとしたあの瞬間、鼻先をかすめた蠱惑の匂い。
男を魅せる、甘い香だった。
気がつけば、手が伸びていた。
そうして。
くちびるに感じた、やわらかな感触。
腕の中にあった、女よりはやや硬めの、しかし、男というほどには硬くない、からだ。
あの方が、殺せなくなったのも、無理はない。
よみがえった感触に、小司馬は、刹那、足を止めた。
コン――と、鹿威しの音で、我に返った。
そっと覗きこんだ亡き主人の部屋には、しかし、お郁の姿はもとより、ひとの気配はなかった。
もしや――と、掛け軸の裏を確認する。
異常はないように見えた。
「明日、注意しておくか」
行灯の火を吹き消した。
「大番頭さん」
抑えられた声に、小司馬は、障子を開ける。
二度寝するには中途半端な時間だったため、寝るのは諦めたのだ。
縁側に、老女がひとり、正座していた。
「梅か。こんなに朝早く、お嬢さまに何かあったのか」
昨日の今日だから、体調でも崩されたかと、いささか軽く考えていた小司馬は、
「お嬢さまが、どこにもおられません」
という梅のことばに、目を剥いた。
まさか。
いや、しかし。
家を出て、どこへ行くというのだ。
行くあてといえば、幼馴染の娘のところくらいだが。
「わかった。おまえは、いつもどおりに過ごせ。お嬢さまがおられないことは、誰にも知られるな」
忠実な老女は、頭を下げると、庭から離れへ向かう。
老女が築山の向こうへと姿を消したのを見て、そういえば、お郁はあの道を知っているなと、思い出す。
火事になったときなどの用心の抜け道だ。
昔はあそこからよく幼馴染の娘がやってきていた。
今まで、あの道を使わずにいて、今頃突然。疑問ではあったが、ひとの心というのは、謎である。
小司馬は、抜け道へと急いだ。
そうして、お郁らしい少女が、浪人者らしい男といるのを、見つけたのだ。
血がさがる。
小司馬は、いつもは来られない男に代わって、お郁を見張るというのも役目のひとつだったからだ。
あの男が、お郁に溺れているのは、確かだ。
それで役目を忘れるような人格ではないと理解してはいても、家出を許した責は、自分にあるのに違いない。ましてや、お郁が、他の男に情を移すなどということは、決してあってならないことだった。
小司馬は、
「こういうときにでも使わなければ、小遣いの無駄だな」
小司馬は独り語ちると、出てきた抜け道へと引き返したのだ。
足元には、既に息絶えた浪人者の骸が血溜まりに倒れていた。
ここまで。
レアに、書き上げただけアップしてるので、明日アップできるかどうか、謎です。
楽しんでくれてるひとがいるといいのですがね。
久しぶりに、日記写真をアップ。
Fさま、ロイです♪ 少しでも癒されてくださるでしょうか。
とっかりの毛皮の置物にじゃれてます。
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