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2024/03
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たとえば、それが 9回目?
 いつもご来訪アンド拍手ありがとうございます。

 まぁ、タイトル通りなんですけどね。めちゃくちゃ久しぶりに書く気力が湧きまして、どうにかえっちらと筆を取ったというか、キーボードを叩いたというかvv

 興味ない方はスルーで。これだけアップしておくつもりなので。

 ちょーっとやっぱり気に入らないというかしっくり来ないんですけどね。いらないところというか、書けないだろうところは端折りまくってますしね。書こうとして書けない納得できないところは切ってもいいだろうかって感じですね。趣味だからね、オッケーさvv

*****






*****







 真珠と称えられる王都の影に、刑場はある。

 清浄を際立たせるためには、汚濁が必要とばかりに、瀑布の裏側に、それは存在した。裏見と呼び習わされ、いつしか転じて恨みと呼ばれるようになったその場所こそが、罪人を処刑する場だった。

 羊歯の垂れ下がる天井から滲み滴り落ちる水滴が、水たまりをあちらこちらに作っている。

 ぐるりと柵に囲まれた一段高い位置に硬い岩盤の平地があり、処刑台が据えられている。既に貴賎の別ない物見高いものたちが柵の外側に集まっていた。

 轟々ととどろきわたる水音を術士たちが消しているため、ざわざわとした喧騒と期待や蔑みに満ちた視線が、湿度と冷感と共に、アヴィシャの全身に絡みついてくる。

 王城の地下牢から続く長く険しい階段を降りた先が、ここだった。

 アヴィシャは既視感に囚われる。

 これと似た場所を、幾度か見た記憶があった。

 ゴツゴツとした岩肌に囲まれた空間。

 ああ。

 無表情の裏側で、そうか−−−と、アヴィシャは思い出す。

 混沌の神の御座(みくら)に、ここはとてもよく似ているのだ。
 
 己の愛するものたちが囚われていた場所に−−−。

 いつはてるとも知れぬ長く神子とは名ばかりの贄の日々を愛するものたちが過ごしていたのとよく似た場所で、己は、ほんの一刻にも満たぬ時を過ごせばいいのだ。

 それを苦痛と思うは愚か。

 アヴィシャはゆっくりと目蓋を閉じ、開いた。







 ファリスに抱き抱えられ、トオルはそれを見た。

 震える手が、柵を握りしめる。

 左右からトオルを抱えるファリスとアディルの全身の強張りが痛いくらいだったが、それさえも気にはならなかった。

 声が出れば、叫んでいただろう。

 遠目ではあったが、粗末な生成りの着衣を身に纏った男がアヴィシャだと、わからないわけがない。

 どうして。

 なぜ。

 いつもは綺麗に撫でつけられているアヴィシャの前髪がその端麗な額に乱れかかっている。まるで望遠鏡で見る月のように、とても近くにアヴィシャがいるかのように、そんな些細なことまで見てとることができた。

 誰かが、なにかをがなるように捲し立てている。

 周囲が、やけに大きな声でなにかを喚いている。

 そんな中、一際耳を聾する金属音が轟き渡り、周囲のどよめきがやまる。

 とてつもなく嫌な予感が背筋を這い登り、トオルの心臓を心を乱れさせる。

 その手に凶悪な鋭さを持つ斧を持った男がひとり現れる。

 罅割れかすれた呼気にも似た小さな悲鳴が、喉を痛めつける。

 小刻みな震え、脂汗が、全身をしとどに濡らす。

 アヴィシャを乱暴に木の台に昇らせ、荒々しく寝かせつけ、押さえつける。

 アヴィ!

 声にはならない悲鳴が、やはり空気を掻き毟る。

 どうして。

 なぜ。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 見たくない。

 けれど。

 見たくない。

 でも………。

 あそこにいるアヴィシャに、駆け寄りたい。

 この頼りない身体で覆い被されば、少しでも彼を助けることができるだろうか。

 この柵が、邪魔になる。

 アディルとファリスがいなければ立つことさえままならないこの身が、疎ましかった。

 振りかぶられる斧の残酷な軌跡を、トオルは見たと思った。







 誰か!

 誰でもいい!

 惑乱する心の底から、トオルは願った。

 なんであろうともかまわない。

 神であろうとも、悪魔であろうとも。

 今更この身が何度目かの死を迎えても、アヴィシャが殺されるよりは遥かにマシだった。

 だから。

 自分をアヴィシャのところに!

 この身が盾になるのなら、喜んで盾になる。

 応−−−と。

 その後なら、かまわない。−−−なにがかまわないのか、わからないままに心から願っていた。

 諾−−−と。

 歓喜の声が脳裏にこだまするのを聞いたような気がした。







 しかし。







「アヴィ………」

 かすれた声が軋むように、倒れ伏す男を呼ぶ。

 突然現れたトオルに、即座に対応できるものはこの場にはいなかった。

 茫然と、ただ、それを、膝に抱え上げる。



 それを。



「アヴィシャ………」

 呼ぶ声に誘われるかのようにゆっくりと。

 酷くゆっくりと。

 膝の上のそれが、目蓋をもたげて、トオルを見た。



 握り潰されるかのような胸の痛みに、ただ、それを、アヴィシャであったものを、抱きかかえる。

 まだ微暖(ほのあたた)かな、熱いほどの血をとめどなく流す、それを。



 けれども、涙は出なかった。



 栗色の眼差しが、とろりと白い膜を帯びたように光をなくしてゆく。

 いつも何かを堪えるように自分を見て、それでいて優しくやわらかに微笑んでくれたアヴィシャという存在が、ただの物体へと変貌を遂げてゆく。その絶望に、トオルは、周囲を見回した。

 誰かは知らない。

 血に染まった斧を手にした男も、アヴィシャを押さえていた男たちも、偉そうにふんぞり帰っている二人の男も、トオルは知らない。

 見知った顔は、アヴィシャの娘だと名乗った少女だけ。

 視線が少女の顔で、ふと、止まる。

 少女の、色調だけがアヴィシャに似た瞳がトオルを捉えて、息を吹き返したかのように光を弾いた。途端、少女は動いた。トオルをそうと見た上で近寄り、見下ろした。

「大公は死んだの。アグリアメタクシの偽物を作らせて売り捌いていたから。そのお金で反逆を企てていたから。だから処刑されたの。わかった? もうあんたをたすけてくれることも、守ってくれることも、ないの。そんな危篤なひとなんて、どこにもいないの。あんたには、今のその格好がお似合い。どうせ、それで哀れみを誘って、大公をたぶらかしたんでしょ。大公はそんなあんたをかわいそうに思って、酔狂で引き取ってくれたのよ!」

 蔑む眼差し。

 嘲る口調。

 馴染んでいたものだった。

 けれど、

「それでも、たとえ同情だろうと酔狂だろうと、かまわなかったんだ」

 そう。

 かすれる声で、トオルは、言い募る。

 アヴィシャと彼に仕えたふたりだけが、この世界でトオルにとってかけがえのない存在だったのだ。
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なんとなくですね。
 いつもご来訪アンド拍手ありがとうございます。

 タイトル意味ないです。思いつかなかったので。

 相変わらずモンステラくん元気にちびっこが伸びてます。小さい芽の新芽が伸びてますね。葉っぱより高くなってる気がします。これ、株分けしたいけど〜したら枯れそうで怖いな。うん。手は出さないぞ!

 最近ダイゴってば「下行くよ」がわかるようになりましたね。「先に下行って」もなんとなくわかるっぽいです。先にはいかないけど、準備はしてるvv 起きて待ってるvv ううむ。伊達に年取ってないね。

 この頃とにかく肩こりで熱が出てるのかけんびきさんが治りきりませんxx 週末になると再発繰り返してます。痛痒いですよん。

 んなこんなでコンディション最悪ですが、「黄泉戸喫」更新してみました。18回目らしいです。前の回覚えてなかった自分がvv
 以下。







 あれが初めてのキスだったのだと、ふと脩は思い出した。

 不安定な宇宙空間に浮かんでの、無理矢理のくちづけ。

 くちびるのやわらかさを確かめるかのように押し当てられてきた男のくちびるが、まるで肉食の獣が食いちぎろうとするかのように噛み付いてきた歯の強靭さが、口内を味わうように探ってくるオーロイレの舌が、そこを伝わって滴り満ちた唾液が。

 あまりの苦しさに思わず飲み下してしまった他人の唾液。

 その生理的な嫌悪に怖気を覚える前に、それまで自分に絡みついていた何かが引き千切られ、熔け崩れてゆく、そんな感覚を覚えた。それを一言で表すなら、喪失であるだろう。それは、同時に、何か別の忌まわしいものが彼に絡みついた瞬間だった。それを表す言葉があるとすれば、強要だろうか。

 そうして、それを、オーロイレは脩とほぼ同時に認めたのだ。

 虚ろにぼやけた視界の中に、男の表情を見ることができた。

 くちづけは終わっていた。

 しかし、それを知るよりも先に、脩は、男の形良いくちびるの端がやけに禍々しい笑みをたたえているのを見たのだ。

 いいや、違う。

 脩は打ち消す。

 違うのだ。

 あの時の彼は、湛えているだけではなかった。喉を震わせて、声に出して笑っていたのだ。

 そう。

 満足気に、我が意を得たりとばかりに。

 これ以上はないほどに上機嫌に。

 しかし、それは同時に、脩の全身が恐怖に震えるほどの、彼にとっては最悪なことが起きたのだと教えるほどの”嗤い”であったのだ。

 あくまでも、自分は彼らの獲物であり、もはや逃げる場所さえもない虜囚なのだと、そう思い知らされるほどの、悪辣極まりない表情だったのである。







 ファーストキス。

 憧れはあった。

 そう。

 好きになった少女と交わす、最初の性的な触れ合い。

 今時の高校生にしてみれば奥手だとはわかっていても、義務教育の半分以上を病院で過ごしていた脩にとってそれは憧れだった。

 誰かを好きになること自体、できるのか、そんな時間が自分に与えられるのか、考える余裕さえない毎日だった。

 発作と検査と入院と、それらの繰り返しが彼の子供時代のほとんどを占めていたからだ。

 それらの合間に、お気に入りのテレビ番組がいくつかあるくらいで、あとは、学校から届けられるプリントや病院内で開かれていた入院を余儀なくされていた学童達の学習の時間だった。

 一旦入院をしてしまえば病院の外に出ることもあまり許されず、走ることもできなかった。

 テレビの時間も短かった。

 学習の時間もたまにくらいしか出ることができなかった。

 好きだったテレビの戦隊モノのモチーフがついた運動靴をいつか履いて走ることが脩の夢だった。

 ガキと言われても、中学くらいまでは幼い時に見たその番組が好きだった。

 中学になる頃にやっと退院できて、友人も少しずつできた。その時には、異性に興味あるなど恥ずかしくて口にもできなくて。異性と喋ることなんか、夢以上に難しいことだった。

 そうして、高校生になって、周囲にちらほらとガールフレンドや恋人や好きな相手がいるなどという話や性的な事柄が含まれた会話が身近なものとなった。

 そんなこと、まるで夢の世界のようだった。

 自分はまだ病院のベッドで発作や検査に苦しみながら細切れの夢を見ているのではないかと、たまに不安になった。

 きっと、自分には恋なんてできないだろうと思えた。

 やっと元気になれたのに、恋もできずに終わるのだろうか?

 そう思う時、不安よりも、悲しみが脩に襲いかかった。



 杞憂だったけれど。



 そう。

 同じクラスの女子生徒にいつの間にか視線が向かっていることに気づいた時、恥ずかしさよりも、嬉しさが先に立った。

 これが恋なのだと、直観した。

 いつか、いつかと、告白を夢に見て、結局行動に移せないままだったけれど、それでも、自分の不甲斐なさよりも彼女を好きになれたことが嬉しくてたまらなかった。

 こんな自分でも、彼女を好きになることができたのだと。

 束ねるのが面倒だから切ったのだと友人と笑っていた笑顔が眩しかった。

 剥き出しになった細い首に、何気ない仕草に、表情に、時々心臓が踊った。



 それなのに。



 この悪夢はなんなのだろう。

「ひっ」

 喉が震えた。

 現実が目の前に突きつけられる。

 緑の瞳が、三対、凝然と自分を見つめている。

 二人は、知っている。

 一人は、知らない。

 囲むようにして自分を見下ろしてくる。

 知らない一人が、二の腕を掴んでくる。

 怖い。

 自分の腕を掴んだその腕の太さに、恐怖が迫り上がる。

 震える。

 震えが止まらない。
なんということもなく
 いつもご来訪ありがとうございます。

 なんか、ローストビーフをカラット? で作ってみました。揚げない揚げ物専用の調理器具ですね。これでローストビーフ作れるってあったので。
 結構柔らかく仕上がったのでいいんじゃないかな? と。お肉本体が筋が多くて硬いのが難点ですが、美味しくいただきました。ごちそうさま。


 んでもって、狂恋の45話目を。年一回更新という極道な更新速度xx 気づいてびっくりですよ。原因は甘いシーンだったから。我ながら気恥ずかしくてアップするのも恥ずいわ! ってなのが理由っぽいんだけどね。


とりあえずアップvv 苦笑しないでね。








 そうして、そのまま僕は意識を失ったのだ。



 気がつくと、僕はユーフォルヴの匂いに包まれていた。

 琥珀色の瞬く灯りがぼんやりと部屋を照らし出している。

「秋人」

 僕が目覚めたのに気づいたユーフォルヴの静かな声が耳を打った。

「ユーフォルヴ」

 言いたいことはたくさんあった。けれど、名前を口にすることが精一杯だった。

 そんな僕の前髪を手櫛で梳き上げながら、

「少しは落ち着いたか」

と、僕の目を覗き込んでくる。

 その黒い瞳に、トクンと鼓動がひとつ音を立てた。

 それはなんということもないただの鼓動のひとつに過ぎなかったのに、そのたった一度の鼓動が僕の体温をあげたのがわかった。

 え? と、思う間もなかった。

 全身が真っ赤になっているのが感じられる。

 全身が小刻みに震えていた。

 何が起きているのか。

 ユーフォルヴから顔を背けたいような、ずっと見ていたいような、不思議な感覚にとらわれて、僕は無様にうろたえた。

「どうした?」

 僕を覗き込んでくる黒い瞳が、すっきりとした鼻梁が、大きな男らしいくちびるが、逞しい顎から喉を抜けて首へと続くライン、それらすべてが、眩しく思えた。

「ユゥ…」

 喉に絡んで名前を綴ることさえできない。

 どうしようと思った。

 ユーフォルヴも不思議そうな表情で僕を見下ろしていた。

 黒い瞳に映る僕は、バカみたいな顔をしている。

 そんなことを思った。

 その時、ユーフォルヴの表情が変わった。

 不思議そうな訝しげなそれから、思いもよらぬことを知ったかのような表情へと。

「あきと?」

 恐る恐るといった声だった。

 それはあまりにユーフォルヴに似つかわしくない声で、それだけに、僕は僕ですらわかっていないままの何かを彼に知られたのだと、その何かは知られれば恥ずかしいことなのだと、自覚した。

 けれど、それは、遅まきに過ぎて。

 泣きたくなった。

 今日は散々泣いたというのに、それとは違う何か別の感情で、泣きそたくなったのだ。

 ユーフォルヴを見ていたい。そう思ったことも忘れて、彼から顔を背けた。

 けれど、それさえもが遅まきに過ぎたのだ。

「秋人」

と、歓喜さえ感じさせる声で、僕を呼ぶ。

 まるで小さな女の子みたいに、僕はイヤイヤと、首を振っていた。

 知らない。

 なんて、まるで、恥ずかしさのあまり怒ってみせる女の子みたいな言葉が頭をいっぱいにする。

 知らない。

 知らない。

 知らない。

 だから、起き上がろうとした。

 彼の下から、逃げ出そうとした。

 そんな僕の肩をやさしく押さえつけて、

「恥ずかしがることはない」

 耳元で囁く声は、嬉しそうで、優しそうで、それでいて、獰猛だった。

「気持ちよくしてやろう」

 はっきりと言われて、僕の思考は真っ白に焼け切れてしまったのだった。

ちょこっと短編
 いつもご来訪ありがとうございます。

 珍しく短編が書けたので〜とはいえ、いつもと同じかなぁ。

陰と陽の絆



 薄暗い。
 窓にかかったブラインド越しの陽光のせいか、部屋の中は薄暗かった。
 もしくはそれは、僕自身の心のありようのせいだったのかもしれない。
 青みがかった薄暗さの中で、僕は背中に冷たいものを感じながら立ち尽くしていた。
 高級ホテルの最上階の一室にある広い応接室の中、まるで会議室のように設え直されたのだろうソファとテーブルの向こう側にずらりと揃っているのは一族の重鎮達だ。彼らの鋭く責めるような視線が僕を射殺さんばかりに凝視してくる。
 背中を流れ落ちるのは、間違いなく脂汗だった。
 一族の長の息子ではあっても、僕はスペアにすぎず、スペアからすら脱落した出来損ないなのだ。
 そんな自分を自覚していたから、僕は逃げたのだ。
 逃げたところで、だれひとり困ることはないと、おそらく問題児が消えてくれたと重鎮達はホッとしただろうと思っていたのだが。
 それなのに、なぜ。
 僕を探すものなどいないだろうと、探すものがいるとすれば、それは彼以外にあり得ないと、そう確信していたというのに。
「奏(そう)座りなさい」
 父のすぐ下の弟、伯父にあたるマルグリット子爵が溜息をつきながら手で椅子を指し示す。
 そのどこか疲れたような表情に、僕の心臓がより一層縮み上がった。
 ゆっくりと、重厚感の勝るゴブラン織の座面に座る。
 忘れ去られすでに香りの散ったコーヒーに手を伸ばし一気に飲み干す。
 乾いていた喉が数時間振りの水分に潤った。
「逃げるなら、一生逃げ切れるようにするべきだ」
 眉間に刻まれた苦渋の証を指先で揉みほぐしながら、厳しい言葉を紡ぐ。
 ああ、変わらない。
 あの息苦しかった世界で散々味わったそれは、懐かしさよりも苦しさを思い出させるものだ。
 出来損ないだと、直接にではなく告げてくる無慈悲なことば。
 安易かとは思った。
 逃亡先を母の故郷に選んだことは、確かに安直だったろう。それでも、母方の親族に接触することなくこの国で暮らそうとしたことは、それほど愚かな策ではないと思えたのだ。
 事実、五年、逃げ切ったではないか。
 彼とは違い、東洋の血を色濃く受け継いだ僕は、ほんの少しばかり彫りが深いだけで、この国の人間として違和感なく溶け込めていた。
 髪も瞳も、母と同じ黒。
 ねっとりとした漆のような色を、僕はあまり好きではなかった。
 彼のような美しさはなくても、あの国で違和感のない金の髪や麦の穂のような色に憧れたものだった。僕のこの髪の色は、一族にとっては異端の色でしかなかったからだ。
 そう。
 今僕を凝視している重鎮達の誰もが、金か麦の穂色の髪を持っているように、一族の中では僕だけが異端だったからだ。
「もっとも、我々から逃げ切ることなどできることではないだろうが」
 単に、逃げたことが愚かだと、そう告げてくる。
 わかっていない。
 ぐるぐると渦を巻くのは、心の奥底に長らく押し込めていた吐き気だった。
 僕は、逃げなければならなかったのだ。
 そう。
 逃げなければ。
「お前の身柄は引き取った。戻りなさい」
 どこに? などと茶化すことはできなかった。
「お前にはお前の役割がある」
 カラーレンズの奥の薄いグレイの瞳が、僕から逸らされることはない。
「スペアの僕に何の役割があるというのです」
 スペアの上に出来損ないの僕に。
 口角がひきつれるように持ち上がってゆくのがわかった。
「捨て置いてくださって結構ですよ」
 どこか別の国にでも逃げようか。それとも。
「そうもいかないだろう」
 言外にお前の思惑など問題ではないのだと匂わせて、別の重鎮が口を出す。
「クリュヴェイエ公爵がお前の現状を知らないとでも?」
 その名に全身が震えるのを必死で堪えた。それでも、血の気が引いて行くのが感じられる。ぐらりと視界が大きく揺れて、ただでさえ青暗い闇がひときわ深さを増した。
 ああ−−−と、現象を理解する。
 最近は、より正確に言えば、ここ五年ばかり起きることのなかった貧血だった。
 あの頃は、すぐに貧血を起こして意識を失っていた。それもまた、スペアとして出来損ないの謗りを受ける原因ではあったのだ。
 だれひとりとして、それがどのタイミングで起きているのかを理解してくれるものなどいはしなかった。
 いや、ただひとりだけ。
 貧血の原因である当のクリュヴェイエ公爵だけが、底意地悪く喉の奥で笑いを噛み殺しながら僕を見ていた。
 伯父の、どこか彼に似た薄いグレイの瞳が、視界で揺れている。グレイの瞳の奥に、かすかな憐憫を感じたのは気のせいだろうか。
 首を振る。
 この貧血は心因性のものだ。
 青く暗く狭まってゆこうとする視界を、必死に元に戻そうと努める。
「わかりました」
 かろうじて椅子から立ち上がった僕が一歩を踏み出したその時、
「なにがわかったというのかな?」
 涼やかな中に毒を混じえた声が耳を射った。
 錯覚ではなく、射たれたとそう思った。
 ホテルの上等なカーペットの上に踏み出した足がバランスを崩したのを他人事のように感じていた。
 とっさに伸ばした手で重厚な椅子の肘掛を掴む。
 息が荒くなった。
 苦しい。
 ダメだ。
 このままでは、捕まってしまう。
 せっかく逃げたのに。
 平穏な毎日を送っていたのに。
 誰か。
 誰か。
 誰か。
 救済を乞う声にならない叫びが、荒ぶる鼓動にリンクする。
 けれど、誰が僕を助けるだろう。
 鼓動と脈動とがからだを震わせる。
 この五年、誰とも深く関わってはこなかった。
 振り返ることさえも恐ろしかった。
 それは、すぐに逃げ出すことができるようにとの配慮であったのか、それとも、こうして捕まることがわかってのことであったのか。
 いつの間にか溢れ出していた冷や汗が瞼を濡らし、目を痛めつけてくる。
 そんな視線の先に、彼がいる。
 僕の顎をきつく掴んで、自分の視線に無理矢理に合わさせる。
 首が痛い。
「いつまでそんなぶざまなさまを晒している」
 この私の弟ともあろうものが。
 頬を張るような鋭い叱責に、涙がこみ上げてくる。
 ああ本当にぶざまきわまりない−−−と。
 引きずり上げるようにして僕を立たせた彼の、ほんの少しだけ乱れた淡い金色の髪の間から覗く薄いブルーグレイの眼差しが、凝視してくる。
 端麗なと表現するも烏滸がましい美貌がそこにはあった。
 犯しがたい威厳を放ちながらそこに存在する彼が、なぜ僕の兄なのか。
 形良い鼻梁の下、薄いそのくちびるが、皮肉げな冷笑を刻んでいた。
 誰が彼と僕とが双子の兄弟だと思うだろう。同じ歳だというのに、彼はすでに完成された貫禄を身につけている。外見だけではなく、内面からにじみ出るものまでもが、立派な支配者のものだ。それなのに、僕はといえば、二十五歳に見られることさえ少ない。そう、この島国にあってさえ、僕は幼く見られてしまうのだ。 
 再び顎を持ち上げられ、
「窶れたな」
 言われて、顔を背けた。
 嘲笑じみたそのことばに湧き上がってくるのは、羞恥以外のなにものでもない。
 窶れた。
「………」
 反論もできなかった。
 留学先の大学を勝手に退学して姿をくらませた僕は偽名を使ったために不法滞在者となった。そんな僕に出来る仕事はアルバイトくらいなものだったからだ。それも夜の仕事、接客は性格上無理だったため裏方だった。華やかな脂粉にまみれた虚飾の世界の陰の中でただ毎日を過ごしていた。
 それでも、
「離せ」
 僕だとてもう子供ではない。
 自分の力だけで生きてきたのだ。
 密入国者が働いている店と摘発され、僕もまた不法滞在者として収監された。
 できればこの国にいたかった。だから特別滞留許可を得ようとしたのが、仇になったのだろう。なぜ、本来二重国籍保持者であったのに、国籍選択の期限である二十二歳までに日本の国籍を得なかったのかと質問されても、答えようがなかったのだ。
 国籍を得て、戸籍を持った途端、兄に見つかるのは火を見るよりも明らかだった。
 今、現在のように。
「まったく。なんとも嘆かわしい。この私の弟が、不法滞在者などという不名誉な犯罪を犯すとは」
 涼しい表情で僕を否定しながら顎を握る手には力が込められてゆく。
 砕かれそうな痛みに、眉をしかめる僕に、
「奏、お前はこの私の、クリュヴェイエ公爵の実の弟であるという誇りを忘れたのか」
と、糾弾の手を緩めない。
 けれど、僕にはそんな誇りなどない。
 僕の誇りは、十年前、この兄によって粉々に砕かれたのだから。
「僕は、もう、クリュヴェイエのものじゃない」
 者なのか、物なのかもあやふやに叫ぶ。
「それは、あんただって知っているだろう! あんたが、あんなことを僕に強いなければ、僕だって、まだクリュヴェイエの名に誇りを持てただろうけど………」
 十年前からの五年間が、どれだけ僕の誇りを粉々に打砕き続けたのか、この兄が知らないわけがない。
 一族の重鎮たちが雁首を揃えていることさえ忘れて、僕は叫んでいた。
 ぶざまだろうとなんだろうと、かまいはしない。
「そんな名前なんか、捨てた! とっくの昔に! だから、あんたは、もう僕にとって」
 喉が破れても構わない、と、できる限りの大声で叫んだせいでおかしなところで息が切れたけれど、
 「赤の他人なんだ」と続けようとしたその刹那に頬に弾けたその衝撃に、部屋の空気が凝りつくよりも先に、
「だまれ」
 似つかわしくないひび割れたような声だった。
 張られた頬の痛みさえ忘れるほどの、豹変だった。
 十年前のあの出来事が脳裏にフラッシュバックする。
 あの悪夢の五年間が、僕の動きを呪縛しようとする。
「お前は私の物だ」
 野蛮な劣情をはらんだ野獣の唸りのような声が、呪縛を解く。
 踵を返した僕の足を、兄が払った。
 まろんだ僕をひっくり返し両肩を絨毯に押さえつけ、猛々しいくちづけを落としてきた。
 もがく僕の手を取ってくれる存在は、だれひとりとして現れず、僕はその場で十年前の再現のように双子の兄の暴虐に曝されたのだ。



 ***** 



 兄の劣情をこの身に打ち込まれ、とめどない白濁を注がれつづけた。
 重鎮たちのだれひとりとしてその場を動くことはなかった。
 兄による弟への蛮行を認めるかのごとき空気がその場にあった。
 なぜ。
 僕はただの出来損ないで、クリュヴェイエには必要のない存在であるだろうに。
 痛くて熱くて苦しいばかりの兄の熱に犯されつづける。
 そんな僕の白くかすんだ視界に映る、重鎮たちの見えるはずのない影が、異形の形を取って見えた。
 そうして兄が僕から身を離したとき、
「確かに」
と、誰かの声が聞こえた。
「クリュヴェイエの血を確認いたしました」
と、誰かがつづける。
 これで名実ともにアンブロワーズ・響(ひびき)・クリュヴェイエがクリュヴェイエ公爵の当主であると承認いたしました−−−と。

 アンブロワーズがクリュヴェイエでありつづけるために、テオドール・奏はアンブロワーズの受け皿となるのだと。



「二度と逃げることは許さない」
 兄の満足げな声が耳元で聞こえたとき、
『逃げるなら、一生逃げ切れるようにするべきだ』
 伯父の言葉が脳裏にこだました。
はぐれびと 7回目 
 いつもご来訪ありがとうございます。

 なんとなく、「クリマイ」シーズン11の9〜14話まで見てました。
 13、14は、しんどい話だけど案外好きかな。
 13の主要登場人物が結構可哀想すぎて好きです。ううむ。


 お昼ご飯にうどんが食べたくて出かけたのですが、どこもいっぱいでコンビニ飯になりましたorz 悲しいぞ。まぁ、縁側押し寿司食べたのですけどね。美味しかったけど、けど〜うどん気分だったので悲しい。食べたお昼ご飯にはごめん。

********* そんなこんなで、以下7回目。






*** 男 ***







 足もとの砂が音を立てる。

 男は、臍を噛んだ。

 視線の先に、まだ穏やかな黒曜の一対を見据えて。

 どうにかして、あれを手にしたかった。

 あれさえ手に入れることができれば、裏切り者たちに報復がかなうのに、と。

 未だ砂漠を出る手立てさえもない身であるというのに、恨みは募る。

 望みは、報復だった。

 しかし。

 あの巨大な蛇は、己のどんな気配にもすぐさま気づき、泉を越えようとすればその瞳を黄金へと変貌させる。

 あの宝の山を貫く、一本の剣。

 それさえあれば、願いは叶うに違いない。

 そう。

 乱戦中に背中を預けた見方が裏切りさえしなければ、この状況に自分が今いることはないのだから。

 なのに、あの蛇は、どれほど自分が気配を抑えてもそれを捉えるのだ。そうしてあの黒々とした深淵のような目を自分に向ける。

 あれがそこここに散乱している杯や皿などと同じ黄金に変化すれば、命の危機にさらされる。

「たのむから」

 つぶやきはボヤキにも通じている。

「その剣が欲しいんだ」

 ボヤキは、願いにも通じているだろう。

「違う。必要なんだ」

 生きるために。

 生きて、見返すためにも。

 見返し、

「そうして、俺が奪ってやる」

 握りしめた拳が、震える。

 掌に爪が突き刺さる。

 そのためにこそ、必要だというのに。

 金銀財宝よりすら光り輝いて見える、一振りの剣。それは、あの泉の向こう、ほんの少し先にあるだけである。

 あの大蛇さえいなければ。

 しかし。

 自分では、あの蛇を退けることなどできない。

「やはり………」

 たのむしかないのか−−−と。

 あの奇妙な盲目の男に。

 自分を救ってくれた、不思議な雰囲気の男だ。

 盲目のくせに、壁を伝うことなく真っすぐに歩く。

 そうして、なにより、不思議で美しい歌を歌い、その言葉で蛇の攻撃を止めた。

 しかし、

「この俺が」

 ジャルディの将軍の一人であり、第一王子であるこの自分が、今頼りにできるのはあのみすぼらしく痩せこけた男だけなのだ。

 そのことが忌々しい。

 今少し見目好い者、せめて女、百歩譲って少女であったなら、素直に感謝をし、王都へと連れ戻ることもやぶさかではないのだが。

 不満はあっても、感謝の意を伝えないわけにはいかない。

「まぁ、あの声と歌は、素晴らしい」

 そういえば、と、そこまで考えて、彼は気付いた。

 あまりに遅まきではあったものの、互いに名乗り合っていなかったことに気づいたのだ。

 二人だけであったために、必要なかったのだと。

「それは、褒められたと思っていいのかなぁ?」

 まただ。

 自分に気配を気取らせぬこの男。

 いつの間に背後を取られていたのか。怖気立つ音を立てて、鎌首をもたげた大蛇が近づいてくる。

 内心の恐怖を堪えるのは、ただ、矜持のためだった。

 この蛇はなぜか、男に懐いているのだ。だから、男がここへ姿を現すとするすると犬のように擦り寄るだけのことなのだ。

 自分のことなど眼中にはない。

 大丈夫だ。

 どこから聞かれていたのかは知らないが、

「褒めている」

 断言する。

「なにがおかしい」

 突然吹き出すように笑いを漏らした男に問えば、

「僕を褒めるのは嫌だという雰囲気が感じられるからねぇ」

 男はそれさえもが面白いとばかりに、喉の奥で笑いを噛み殺す。

 そのどこか品を感じさせるような仕草がその風体と相まって、彼はどうにも気にくわないのだ。

「まぁ、大丈夫。すぐに………そうですねぇ、あと二日もすれば、あなたの迎えがここに来るでしょうし」

 思いもよらない客人も一緒にねぇ。

 ”ねぇ”の箇所で大蛇の鼻面に鼻先を触れ合わせる。

 その口角が良からぬことを企むかのように持ち上がっているのが、目についた。

「先見ができるかのように………いや、できるのか?」

 改めて男を見た。

 黒光りする大蛇の鱗を不器用そうに撫でさするのは、骨にいくばくかの肉と皮とをまといつかせたような腕だ。腕だけではない、全身がこうなのだろう。服と呼ぶのも無残な襤褸の隙間に覗く生成り色の皮膚は貧弱そのものだった。乱れに乱れた蓬髪など、色もわからぬほどに砂塵まみれだ。

 目を覆う布をとれば、少しは見目好いさまが見られるのかもしれないと思うのは、鼻梁と薄いくちびるとの釣り合いが取れているからだ。

 あとせめて肉がつけば。

 ともあれ、そんな哀れなさまの男から、思いもよらぬ特技がぽろぽろと出てくるのだ。

「宝の持ち腐れか」

 思わずつぶやかずにいられなかった。

「辛辣だねぇ」

 たまにだよと応えながらも、不器用な手の動きは止まらない。その不器用な動きに、それでも大蛇は当然と目を細めている。

「たまに?」

「そう。ごくたまにね、なんとなくわかるような気がするんだよね」

 どうでもいいことなんだけど。

 そっけなく告げてくることばに、男は目を剥かずにはいられない。

 ごくたまのことであれ、先が見えるというのなら、この男を誰ぞに知られるわけにはいかない。

「いつもじゃないからねぇ」

 良からぬことを企むかのようだった口角の引き連れが、ゆるると機嫌よさげな角度に落ち着く。

「だから、気にしなくていいよ。ただ、迎えが来るのは、ほんと」

 見える気がすると言いながら断言する。

「これは、言い切れるから、安心するといいよ」

 よかったね、美味しいものが食べられるよ。

 付け加えてくる。

「それはありがたい」

 喉の奥に絡むような笑い声に、首から上が熱くなる。

 火を起こすものがないため、どうしても調理できないのだ。

 生の肉を見るもの、正直嫌でたまらなかった。

 そして、またひとつ、男は気付いた。

 目の前の男が、これまで食べ物を口にするのを見たことがなかったと。

「お前は、食べないで平気なのか」

 男のことばに、彼の動きが刹那止まる。

「今更?」

 そう。今更だ。

「いいけど。僕は長く食べなくても平気なんだよね」

 砂漠でいるには便利だろ。

 クツクツと笑う。

 この男はよく笑う。

 そんなことにも、今更気付いた。

「今更ついでだが、お前、名前は?」

 瞬時男の笑い声が止まる。

 息を止めてでもいたのか、破裂するかのような笑い声が響いたと思えば、

「ほんと、今更だよ」

 肩を震わせる。

 ひとしきり笑ったあとで、

「そういうあなたは?」

 まだ笑いの残る声で、訊ね返された。

「俺は、ヴァルム・ジャルディという」

 ジャルディという姓に反応するかと見守る先で、男はただ”ふうん”と嘯き、

「僕は………ヤヒロ。姓はないよ」

と、答えたのだった。

ほぼ2年ぶり
 いつもご来訪ありがとうございます。

 ほぼ2年ぶりに「散華月」に手をつけました。が、主人公が絶望してるので原稿用紙2枚ないくらい。短すぎるが、描いてる方が疲れるのでorz

 このGWは結構創作に勤しみましたよ。
 「黄泉戸喫」の続きもほぼ1年ぶりに手をつけましたしね。こちらは主人公が出ない。うん。ヴェンツェルに挑戦したんですよね〜。脳筋予定の光の支配者(神だがな)だったりするんですが、苛烈なはずがちょっと甘ちゃんになっちゃた。もっとスパッと女性を切り捨てられるタイプのはずだったんですけどほだされてやんのvv ま、いいですけど。ちょっと設定が狂った箇所があって、どうしようかなと。

 喉風邪から鼻風邪になって、今お腹もちょっと影響受けてますが。鼻が詰まったり垂れたり………xx 2週間は引きずる覚悟してたんだけど、ちょっとやばいなぁ。しんどいんですよね。
 や、花粉症ではないです。混同はしてませんが。しんどい。

ともあれ以下「散華月」** 絶 望 **






 薄暗い視界に、漂うように迫るオースティンの姿があった。

 それを見た途端、こみ上げた怒りが萎んでゆく。

 取って代わったのは、怯えだった。

 姫宮はただ震える。

 ただ怯えてそれを見る。

 逃げることなど考えもつかなかった。

 目の前に、青白い幽鬼の顔がある。

 目を瞑ることさえも恐ろしくてできず、姫宮はただその生気のない顔を視界に映していた。

 どれくらいそうしていただろう。

 かわいそうに………と、オースティンのくちびるが動いた。

 音なく脳裏に紡がれたその声に、姫宮が大きく震えた。

 霜を宿した掌が、しゃりしゃりとした冷たさをまとったまま頬を両側から挟み込む。

 冷たさに熱を奪われてゆく。

 このまま………。

 そうなのか。

 なにがそうなのか形にすることができないままに、それまでの恐怖を忘れてただぼんやりとそれを見返した。

 −−−かわいそうに。

 それしかしゃべることができない人形のように、オースティンが繰り返す。

 静かに、音もなく、まるで雪のようにしんしんと脳裏を埋め尽くしてゆく。

 お前の望みは………と、冷え切った頭に浮かび上がったそれを、言葉にする前にオースティンが笑った。

「いいさ。好きにすればいい」

 生者には不可能だろう、怖気立つようなその笑みに、もはや鳥肌が立つことさえなかった。

「おまえも、あいつも、親父もっ」

 みんな好きにすればいいんだ。

 魂消るような叫びに、オースティンが姫宮を抱きしめる。

 かわいそうにと囁きを形作るそのくちびるは、しかし、歪な歓喜を宿していた。


***** 短すぎる。

 ともあれ、次は「黄泉戸喫」** 占い女 **






「ふん」

 鼻を鳴らし周囲を確認する。

 花々の咲き乱れる美しい庭園の只中に、神殿のような建物がその瀟洒な姿を見せている。

 太い列柱がずらりと並び天井を支えるその建築様式は、まさに古い神々が暮らすにふさわしい場所であるだろう。

「変わらんな」

 ヴェンツェルが石段に足をかけた。

「お帰りなさいませ」

 落ち着いた声に視線を上げたヴェンツェルは、そこにひとりの女性を見出した。

「ヘドヴィグか。久しいな」

 褐色の髪に同色の瞳の落ち着いた印象の女性だった。

 からだの線に沿ってさらりとなだらかなドレープを見せる着衣は、ヴェンツェルの纏う貫頭衣と対のもののように見えるが、材質の違いが際立つ。いかにも上等な絹織物である。

「皆息災か」

「はい」

「それは重畳」

「主さまもご無事で」

「我に何が起きよう」

 おおどかに笑いながら石畳を登る。その悠然としたさまに、ヘドヴィグの頬にかすかな血の色が宿る。

 創世神の一柱たる威容に、彼に仕えることを許された己が僥倖に、彼女の全身が火照る。

「お湯殿を? それとも何かお召し上がりになられますか?」

 火照りを鎮めようと、己の職務へとたち戻る。そんなヘドヴィグに、

「女たちを集めてくれ」

 どこにとも言わず放たれた命に、逡巡することなく、彼女は諾なった。

 長らく不在の主ではあれ、彼のことばを間違いなく受け止めることができる。

 広い城のあちらこちらで主不在の日々をただ彼を待つことで潰していたものたちが、彼の気配に姿を現わす。

 喜色に満ちたものたちを、ヘドヴィグは主が望む場所へと導いた。

 百を下らぬ女性たちの脂粉の香りが、主の望むその場に満ちる。

 城の中心に位置するその広間の窓辺にヴェンツェルが陣取る。

 腰高の窓枠に腰を下ろし、足を組む。

 その男らしい額を彩る辰砂の髪が、風に揺れる。かすかにはためく貫頭衣から、かいま見える胸元に、たくましい足に、全身に、彼女たちが待ち望んだ主の存在感に、三々五々集まった女性たちの全員の意識が向かう。

 たとえ簡素な貫頭衣を腰帯で括っただけの姿であれ、一柱の威厳が損なわれるはずもない。

 より一層その存在の尊さが、際立つというものだ。

 おどおどと最後に現れた、小さなものがヴェンツェルに高杯を掲げ上げる。

 それを取り上げ喉を潤した彼が開いた口から放たれたそれに、女たちの口が驚きに開かれ、やがて絶望の悲鳴がこぼれ落ちた。

 あまりにもあっさりと、なんら躊躇を見せもせぬ神らしい無造作さで、ヴェンツェルは言い放ったのだ。

 思いもよらぬ主のことばに最初に現実に立ち戻ったのはヘドヴィグだった。

「我らはもう要らぬと、そう仰せられましたでしょうか」

 毅然とした声だった。

 悲嘆と絶望とに満ちた広間の中、彼女の声は硬く重々しく響いた。

「閨の相手はもう要らぬと、そう言ったのだ」

 むざむざとここで無聊(ぶりょう)を託(かこ)つつもりか。

「では、閨以外でお仕えすることなればお許しいただけるということでよろしいのでしょうか」

 少しずつ泣き声が小さくなってゆく。

「そなたらになにができる」

 城の管理ならば男たちがいるが、本当のところはいなくてもなんら不都合はないのだ。

 ヴァルェグバンドガルは、かつての彼らのからだを核に創り上げた小世界である。容易く変化しないよう固めてあるとはいえ、彼らの思考や嗜好に従う。そこに造った城ならばより一層のこと縦(ほしいまま)となる。

 なぜこんなにも人間やフェルニゲシュがこの場にいるのかといえば、彼らに仕えることを望むものたちが多く煩わしいというただそれだけのことにすぎない。

 女たちは、ヴェンツェルが気に入り閨の相手として招き入れたものではあるのだが。それ以外は、これ以上煩わされたくないため望んだ者たちから厳選して受け入れたフェルニゲシュである。

 言下に切り捨てることさえも見捨てることさえもできる彼ではあったが、永く彼らに仕えたいと望んできたフェルニゲシュたちまでもを粗雑に扱うのには少しばかりの罪悪感があった。

 この世界を創る以前からの絆めいたものが、細くとはいえ確かにあるのだ。

 それに、彼らは増えはしないが、減ることもない。人間であれば瞬く間に死を迎え彼を置き去りにしてしまうが、それがないのである。

 −−−我らだけではさすがに飽きる。

 これは、ラドカーンの言であったろうか。

「掃除でもなんでもいたします」

 そう叫ぶように言ったのは、広間の隅、ヴェンツェルから遠い場所にいた年若く見える女である。

「料理も覚えます」

「庭仕事も」

「なんでもいたします」

 次々と上がる声に、

「主さまはお忘れでございますか?」

 ヘドヴィグが悲しそうに言った。

「私どもは人間でございます。主さまのお情けによって老いや死から免れておりますが、短い者でもこの地ですでに数十年を過ごしております。長い者では数百、数千を数える者も。そんな者たちがここを出てしまえばどうなるか」

 たちまち塵と散じてしまいましょう。

 そうでなくとも、知人のいない世で生きるのは辛いものでございます。

 息を呑むような悲鳴が広間の空気をひび割れさせた。

「今声を上げている者は、長く主さまにお仕えさせていただいた者たちばかりでございます」

 どうか、今少しのお情けをいただけませんでしょうか。

「わかった」

 ヘドヴィグのことばに、ヴェンツェルは己が深く考えもせず気軽に手折ってきた女たちを見渡した。

 彼好みの、肉感的な姿が目立つ。が、中には肉付きの薄い少年のような女もいる。

「少し簡単に考えすぎていたか」

 ヴェンツェルの胸に後悔めいた感情が芽生えた。

 首を振るヴェンツェルの動きに連れて辰砂の髪が炎のように揺れた。


***** ね。甘ちゃんでしょ。ううむ。おおらかなんだけど切るものは切り捨てられるタイプだったんですけどね〜。それをいうならラドカーンも似たようなもんになってるしなぁ。オーロイレだけかな? もっとも、彼の場合は囲ってないので。彼らは本一個体の文体みたいなもんなんで、根本的には一緒なんだけど、長く文体として生きてたから正確に違いが出てきたんだろうなぁ。ということにしておこう。

 少しでも楽しんでくださると嬉しいな。

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13回目
 いつもご来訪アンド拍手コメントありがとうございます。遅くなりました。レスは後ほど。





 狂人を見るような視線だと思った。

 それはすぐに消えたけれど。

 ああ。

 やっぱり。

 失望だろうか、諦念だろうか。

 エドナの目は、いつも通りの色を宿していたけれど、瞬間的な感情の発露を見逃すことはなかった。

 それでも。

 胸の内に溜まっていた恐怖を口にしたことで、わたしの心は少しだけ晴れた。

 くすぶることは他にもるけれど、今一番の恐怖は、”あれ”のことだったから。

「誰かが一緒にいれば、現れないのですよね」

 ゆっくりとエドナが口を開いた。

「そうよ」

「夜も、出てくるのですか?」

 一番恐ろしいのは、夜だ。

「そう」

 だから本当は………。

「公爵さまはご一緒では」

 言いかけて、はしたないことと口に手を当てるエドナに、

「お忙しい方ですから」

 そうとだけ、告げた。

 それだけで、腑に落ちることがあったのか。ひとりうなづくエドナに、顔が熱くなるような心地を覚えた。

 閨事情の一端を自ら漏らしてしまったことに、遅ればせながら気付いたのだ。

 しばらくの居心地の悪い空気に、鍵盤を見つめた。

「でしたら、わたしがケイティさまとご一緒すればいいのでは?」

 思わぬ提案に、エドナを見上げた。

「そうですわ。わたしがケイティさまと一緒のベッドで眠れば問題ありません」

 そうすれば、ケイティさまは安眠できましてよ!

 名案だと手を打ち合わせるエドナに、

「同じベッドで眠るの?」

 微妙な表情になった自覚があった。

「女同士ですもの。おかしなことではありませんでしょう?」

 それは、わたしのベッドは広いから、エドナの三人くらいなら余裕で一緒に眠ることができるだろうけれど。

 故郷にいたころには、仲の良かったお友達と同じベッドで眠ったことくらい何度もあるけれど。あれは、気心の知れたお友達だったから、できたことなのだ。と、そこまで考えて、自分がエドナをそこまで親しい存在だと思っていないことに気づいた。

 それに。

 それでは根本的な解決にはならないだろう。

 わたしの望みは、”あれ”が現れなくなることなのだから。

 ”あれ”が超自然的な存在だとわかっていたから、本当であれば牧師さまにでも相談すればよかったのだろう。考えなかったと言えば嘘になるけれど、どうしても踏ん切りをつけることができなかったのだ。それには、この教区の牧師さまがご高齢であるということが原因だったけれど。

 穏やかでお優しそうな牧師さまに、あの恐ろしいものと対峙していただくなど、考えられなかった。

 だから、

「そうね」

と、了承したのだ。







***** 








「母上どこに行くのです」

 手を引かれて歩く。

 足取りも軽く、踊るように歩く母の歩調に合わせるのは、僕には難しかった。

 遅れそうになるたびに駆け足になる。

 今がいつなのか、わからなかった。

 ここがどこなのか、どの領域なのか、階なのかさえもわからないままに。

 左右ずらりと並んだドアの間、壁のロウソクが灯っていてさえも薄暗い廊下を、ただ幼子のように母に手を引かれて。

 夢だと思った。

 いつもの、縊れ死にした刹那の恐ろしい表情をした母ではなく、楽しそうな微笑みをたたえた母。

 そんな表情が僕に向けられた記憶など、ないけれど。

 しゃらりしゃりりと、どこかでドルイドベルが独特の音色を奏でている。

 手首に巻かれた赤いレースが、恐怖を与えてくる。

 どこに行くのかわからないというのに、これがあるということは彼女は自分に憑依するつもりなのだ。

 恐怖と、それを受け入れる己に対する諦観と。

 不意に投げ出されるように、手を離された。

 まろび、膝を打ち付ける。

 カーペット越しの廊下の感触にしたたかな硬さを感じて、生理的な涙がにじむ。

 霞む視界に、何かを指し示す母の姿が見えた。

 琥珀色の光が降り注ぐそこ。

 暖かな光の海の中に、母以外の誰かが立っていた。

 ガウン姿の女性は

 あの栗色の髪は。

 ドクリ。

 嫌な鼓動だった。

 いつの間にか母がすぐそばで僕に囁きかけてくる。

 死ねばいい−−−。

 ウィロウさまの子供を産む女なぞ、死ねばいい−−−と。

 わたくし以外がウィロウさまに抱かれるなど、許さない−−−と。

 巻きつくリボンが、手首に食い込んでくる。

 たとえ、おまえでも、許さない−−−と。

 きつく。

 きつく。

 憎い。

 憎い。

 憎くてたまらない。

 死んでしまえ−−−と。

 頭の中にこだましつづける。

 笑いすら孕んだその声が、いつしか僕自身のものへと変貌を遂げて−−−。

 そうして。





 僕の手が、僕の意思に反して、伸ばされてゆく。

 手にするのは、赤。

 僕の視界には、白く細い喉頸。

 鮮やかに禍々しく色を見せるのは、一本の赤。背徳的な戯曲の悲劇のヒロインに与えられた刑罰への示唆のような赤。

 そこまで認めて、ようやく僕は己の行動の意味を知る。

 手から力が抜けて行く。

 力をなくした手から逃げる蛇のようにするりと落ちた赤いリボンが、床の上で赤黒い溜まりを形作る。

 振り返りざま僕を見たのは、驚愕に見開かれた双眼。前髪に隠れて、まるで曇天の空のよう。

 ゆっくりと閉じられて、倒れ落ちた。

 ああ!

 なにを。

 僕は、なにを。

 憎いと。

 死んでしまえと。

 手に残るのは、リボン越しに伝わってきた鼓動。

 たおやかな白い喉頸には似つかわしくない、したたかな筋肉の感触。

 僕は、僕の足元に倒れる彼女を見下ろす。

 殺したのだと。

 この手で、彼女を殺してしまったのだと。

 だから。

 僕は。

「ち………ちち、うえ………………」

 こぼれ落ちた叫びはつぶやきにもならず。

 頬を、耳を、頭を、両の手でかきむしる。

 彼女の感触を拭い去るように。

 父を呼びながら。

 父ならば僕を助けてくれると、足が、一歩を踏み出した。

 その時。

 絹をつんざくような悲鳴が聞こえた。





*********** アークレーヌが唐突っぽいんだけどね。ううむ。こんな感じです。

 このところストレス溜まりまくって、まして、夢で怒り狂ってたり酷いです。我ながら。
 腰椎狭窄は冷えると痛くて、ぎっくり腰か? と思うくらい痛かったりxx これでも軽症。ううん。これ以上ひどくならないようにしないと。


 この辺でレスです。

trapさま
 こんにちは。
 ええと、長くレスなしで申し訳ありませんでした。
 ちょ〜っとストレスとかたまりまくったり冷えで腰が痛くてたまらなかったりして、ブログ書く気力がでなかったのが原因です。
 コメントありがとうございました。
 灯油口開きっぱなしって火災原因になるんですね。存じませんでした。そうか。それならお巡りさんが注意するのもわかります。
 寒いですからね。
 今朝は雪が積もっておりました。積雪1センチ未満っぽいですが。びっくりしました。
 今年はほんっとうに寒いです。
 腰が痛い時はマジで痛くて辛いです。治らないですしねぇ。ため息です。
 それでは、この辺で。
 trapさまも暖かくなさってくださいね。
 おやすみなさい。
暫定 無題(いつまで?)12回目かもしれない。
 いつもご来訪&拍手ありがとうございます。

 まだケイティのターンですが、とりあえず5kbほどかけたのでアップです。
 難しいわぁ。
 ホラーテイストなんぞ取り入れるんじゃなかったorz
 しかも、ジョン・ソール風って。マイナーもいいところだわ。

***** 少しでも楽しんでいただけると嬉しです。




 部屋だけじゃなく、視線を感じて振り向くと、薄暗い影からわたしを恨めしげなねつい視線で睨みつけているそれを見つけてしまう。

 落ち着ける場所が、なかった。

 どこにいればいいのだろう。

 ただ、わたし以外にだれかがいればそれは姿を見せることがなかったから、わたしはいつも以上にエドナに頼ってしまっていた。だって、悲しいけれど、ウィロウさまは滅多に私のところにいらしては下さらなかったから。

 それが、あのことの原因のひとつになったのだろうか?

 まさか、エドナがあんなことを考えていたなんて、わたしは思いだにしなかった。





「奥さま、どうかなさったのですか?」

 最初に水を向けてきたのは、エドナだった。

 外装に傷がついたピアノの代わりにと、ウィロウさまが取り寄せてくださったアップライトのピアノの蓋を開けた時だった。

 届いたばかりのそれからは、塗装の匂いや木の匂いが漂っていて、ほんの少しだけわたしの心を慰めてくれた。

 黒い外装ではなくて白と金の優美な外装のそれは、ウィロウさまご自身が選んでくださったのだと、ハロルドから聞いていた。

 最新型のピアノだということで、鍵盤の数は八十八ある。その滑らかな白と黒の感触を楽しんでいた時に、不意にエドナが話しかけてきたのだった。

 思いつめたように、心配そうに。

 だからと言って、わたし以外に見えない、かつてはひとであったろうそれのことをどう伝えればいいのだろう。

 どうしてあんなにも恨まれ憎まれなければならないのか、わたしには皆目見当がつかなかったのだ。

 誰なのかすらわからないのだから、当然と言えば言えた。

 ただ、記憶の片隅に、ほんの少しだけ引っかかるものがあったのだけれど、それをうまく捕まえることができなかったのだ。

 だから、わたしは、このことをウィロウさまにも言ってはいなかった。

 ただでさえ、以前のことがまだ解決していないのだ。この上こんなことでお忙しいウィロウさまのお手を煩わせることはいけないことだと、自分を抑えていたのだけれど。

 努めて、平静を装ってはいたつもりなのだけれど、

「どうしてそう思うの?」

 ピアノの椅子をクルリと回して、からだごとエドナの方を向いた。

 ティーテーブルの上で数冊の楽譜を広げていたエドナが、

「お顔の色がお悪いのですもの」

と、わたしの方を見て言った。

「侍女たちも、皆心配しておりましてよ」

 そのことばに、己の自制心が思っていたよりも脆いものだったのだと思い知らされる。

「そ、う………」

 適当な鍵盤をひとつ指で弾く。

 E音が澄んだ音色を響かせる。

 エドナから顔を背けるようにして全身でピアノに向かい、心の鬱屈を打ち消すようにメロディを掻き鳴らした。

「”Twinkle, twinkle, little star”ですね」

 そう言われて、思わず、

「気分は”Ah! vous dirai-je, maman”(ああ、お母さん、あなたに申しましょう)なのだけれど」

と、言っていた。

「蓮っ葉ですよ」

 前世紀に流行ったシャンソンの歌詞を思い浮かべたのか、エドナがたしなめてくる。

「Peut-on vivre sans amant ? 」

 恋人なしではいられないの?

 最後のフレーズを口ずさむ。

 −−−ウィロウさまなしでは、いられないの。

 そう。

 我慢しているけれど、わたしは本当に、ウィロウさまが大好きなのだ。

 本当は、いつだって、お側にいたい。

 いつだって、お声を聞いていたい。

 いつだって、抱きしめていてほしい。

 そう。

 わたしが求めているほどにウィロウさまがわたしのことを想ってくださってはいないことは、知っているけれど。

 ウィロウさまが心の底から求めているのがどなたなのか、忌避すべき疑惑と共にほぼ確信してはいるけれど。

 それでも。

 こんなにも不安でたまらない時には、側にいてほしい。

 そう思って、何が悪いだろう。

 ずっと、ずっと我慢してきたのに。

 そう。

 本当は、なりふりかまわずに、すがりつきたい。

 ずっと、一緒にいてください−−−と、泣き叫びたい。

 ウィロウさまなしでは、いられないのだ。

 ひとり寝のベッドの中で、忌まわしくもあらぬこと、あってはならぬことを想像してしまうほどに。

 くちづけてくださいと。

 触れて、ください−−−と。

 その方ではなく、わたしを、見てください。

 わたしを抱いてください−−−と。

 はしたないことと全身が火照ってしまうけれど。

 このお腹の中にいる子ともども、愛してくださいと。

 泣き叫んでしまいそうになる。

 わたしだけのものになってください! と。

 ほとばしり出そうになるのは、これまでわたしが感じたことのない情動だった。

「本当に、どうなさったのですか?」

 心配そうな声に励まされるような気がした。

「怖いの」

 あの幽鬼のことを口にすればおかしくなったと思われそうで、

「怖くてたまらなくて………だから、ウィロウさまにお会いしたいの」

 理由をぼやかす。

 けれど、

「なにが、そんなに恐ろしいのです?」

 誤魔化されてはくれないエドナを、まるであの幽鬼のようにぞろりと恨めしげに睨み上げて、

「信じないわ」

 睨めつける。

「そんなこと!」

 ありません、あるわよ、と、何度も押し問答を繰り返す。

 どれくらい繰り返しただろう。

 互いに肩で息をするほどに続けて、最終的に顔を見合わせて苦笑する羽目になった。

「本当に信じてくれる? 見えないわよあなたには、きっと」

「見えなくても、信じることはできますわ」

 見下ろしてくる榛色の目を見上げて、

「わかったわ。決して、わたしの気が触れたなんて思わないで」

 そうして、わたしはエドナに話して聞かせたのだ。





 
遅くなりましたが。&「たとえば、それが」2回目
 いつもご来訪&拍手コメントありがとうございます。レスは後ほど。

 遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


 そういえば、昨日出掛けてて、hondaのfitが目の前を走ってたのですが、後ろ姿が、なまはげに見えて仕方がなかった。ううむ。


 以下「たとえば、それが」2回目です。

******






***** 







「どうしてよ!」
 ミュケイラの叫びに、侍女は無表情だった。

 やっと願いが叶ってここまでやってきたというのに。

 目的にほぼ王手をかけているというのに、こと大公家での生活は思い通りに運ばない。

 侍女達は従順で、そこに不満はない。

 けれど、ミュケイラは戻った自室で叫ばずにはいられなかったのだ。





「ミュケイラさま」

 静かなアディルの声に、我に返った。

「あ………」

 口元に手をやる。

「ご、ごめんなさい」

 ここは、大公の書斎である。

 彼の背後の大きくくり抜かれた窓からは、この国の象徴ともいうべき瀑布が見える。もちろん、音は完璧に遮断されている。でなければ、この位置に城を立てようなどという物好きはいないに違いない。

「何が不満だ」

 大公の薄いくちびるがようようのこと言葉を紡いだ。

 机の天板の上に両肘をつき組み合わせた両手の背に繊細な顎を乗せた格好で、ミュケイラを見上げている。ただし、逆光のため表情ははっきりとはわからない。

 静かな声には、なんの感情も含まれてはいないかのようだった。

「滝の見える場所に部屋を変えて欲しいのです。それと、婚約発表の場に着るドレスの生地が、その………………」

 少しばかりわがままかなとは思わないでもないけれど、と、ミュケイラは内心で独りごちる。

 瀑布の脇に建つ白亜の城。

 王城を頂点に少しずつ位置を下げて大小様々に趣向を凝らした美しい城の数々は、瀑布から流れ落ちる大河の両側に広がる王都に暮らすものたちにとって憧れの象徴である。子爵以下ともなれば王都に城を構えることを余儀なくされる。しかし、それでも、子爵以上の貴族であれば、滝に沿うように造られた棚地に城を建てる権利を持つ貴族の令息令嬢であれば滝の見える場所に部屋を持つことが自慢になる。少なくとも、学園ではそうだった。だから、大公の娘だと認められこの城に迎え入れられた時には、滝の見える部屋を与えられるだろうと確信していたのだ。しかし、与えられたのは、滝とは真逆の部屋だった。ただの平民の娘として生きて来たミュケイラにとって、天上とも思えるほど夢のように美しい部屋ではあったけれど、窓から見えるのは、城の中庭だった。

 それに、一月後に迫った婚約式の場で着るドレスの生地が気に入らなかった。店に入ることさえもはばかられるほどに高級な、国内でも三本の指に入る商人を彼女の客間に呼び寄せるという、これぞ王侯貴族! という慣習に自尊心をくすぐられたものの、目の前に広げられた数多の生地のきらびやかさに目を奪われたけれど、それでも、これではないと思った。そう。ただの極上の絹では駄目なのだ。

 追い落とした王太子の元婚約者。

 創世の神の巫女姫である彼女が折々に身にまとった、アグリアメタスソコリガという魔物からだけ取ることができるという夢のようにやわらかく美しい、特別の絹。魔物の名の前をとって、アグリアメタクシと呼ばれるそれで作られたドレスをどうしても着たかった。なのに、

「どの商人も、在庫がないと言うのです」

 希少性の高さから、天井知らずの値がつくとは聞いていた。そのため、基本的に、身にまとうことができるのは王侯と巫女だけなのだと。それも、折々の特別な場でのみのことである。しかし、今や大公令嬢と認められたミュケイラならば、婚約式の場であれば着ることができるはずである。それなのに!

 悔しい。

 ここまで思い通りに運んだだけに。

「もう時間がないのです」

 望む形のドレスを縫うのには時間がかかる。

 もちろん、お針子をたくさん集めているけれど、それでも。

 可愛い娘のおねだりならば、父親は叶えてくれるはずだ。

 なにしろ、生まれる前から行方知れずだった我が子の願いなのだ。

 そう思いながら、ミュケイラは両手をひねり合わせるようにして、悲しそうに目を伏せて見せた。

 目の隅に、アディルが何事かを大公に耳打ちしているのが見えた。

 長く感じた沈黙の後に、ようやく大公が口を開いた。

 低く心地の良い声音が、しかし紡いだのは、

「部屋を移ることはならぬ。そなたの部屋は居心地よくしつらえられていよう。また、ドレスをアグリアメタクシで作らねばならぬということもあるまい」

 無情なまでの否定だった。

「お父さま!」

 思わず机に走りより、天板に両手をついていた。

「ミュケイラさま」

 アディルが、とりなすかのように促すかのように声をかけた。

「閣下はお忙しい方ですから、もうご無理は言われませんよう。アグリアメタクシはお諦めください」

「ひどい………」

 机から遠ざかる。

「お父さまはわたしがお嫌いなのですねっ」

 涙目でふたりをねめつけるようにして、ミュケイラは書斎から飛び出した。

 その彼女を大公とアディルがどんな眼差しで見ていたのかを、幸か不幸か、彼女が知ることはない。

「騒々しい」

 高い足音がようやく消えて、大公が吐き捨てた。

「”お嫌いなのですね”………だと? 嫌いに決まっておろうが」

「閣下」

 諌めるようなアディルの声音に、

「止めるな」

 片手を振る。

「しかし」

「誰が聞く」

「たとえ聞いたとて、”ご注進”とはならぬさ」

 皮肉な声に、

「仮にも殿下の許嫁でございましょう」

「略奪とはな。はしたないことよ」

 口角をもたげて、大公が嘲笑う。

「あれが、我が子などであるものか」

 吐き捨てる。

「我が子は………」

「閣下」

 顔を伏せた大公に、アディルもまた沈痛な面持ちで口をつぐんだ。







***** 







 生まれも育ちも外国の大公の友人の忘れ形見ということで学園に入学したのはいいものの、月の半分は寝込んでいるトオルである。

 親しい人間はできることなく、客扱いでただクラスにいるだけだった。

 一応真面目に授業を受けてはいる。

 少しずつファリスやアディルに教えてもらっていた文字や語彙も、学園に来て増えた。それでもどことなくたどたどしい発音や、綴り間違いの多さに、おそらくはなぜ学園にいると思われていることだろう。

 それでもかまわなかった。

 庶民から王族まで、かなりたくさんの人間が集まる学園は、基本無償で通うことができるらしい。ただし、裕福な家庭のものは寄付という名目で多額の金額を払うこともあり、学園内では様々な雑事を免除されている。例えば校内清掃とかの煩わしいものは、彼らには関係がない。ただ、雑事とはいえ、庶民に命令されるのが嫌という理由なのか、生徒会とかクラス委員的な役目は、彼らに割り振られることが多かった。

 有償と無償の学生の違いを見分けることは簡単だ。

 制服を着ているか着ていないかですぐにわかる。

 男子はどこか軍服めいた詰襟の制服で、女子はセーラー服のような襟のついた細身のドレスだった。ただし、トオルは制服を着ることはない。詰襟の制服などは、治りきることのない傷に触れてしまうからだった。そのため、庶民に間違われることがないようにと、アディルが揃えさせた、トオルの目には華美に映る絹らしき布地の胴着の着用の許可を特別に得ていた。また、トオルには、大公の意向でファリスがつけられていた。

 そんな彼が周囲から遠巻きに見られても、仕方がない。けれど、トオルは、それでも良かったのだ。

 トオルが知る学生というのは、小学生までのことだったけれど、それでも、かつて味わっていた普通の学生の雰囲気を味わうことができるのならそれだけで構わなかったのだ。

 面白いのは、算術だろうか。

 加減乗除ができればそれで充分な授業は、こちらに来た時が中学入学直前だったトオルにはとっつきやすいこともあり、気分転換になった。

 あとは、魔術か。

 トオルに魔術の素養はなく完璧に”お客さま”でしかなかったが、座学で不思議な呪文のような話を聞き奇術のような現象が目の前で繰り広げられる実技を見るだけでも興味深かった。

 そんな毎日が、十日も続くと、トオルはだんだんと落ち着かなくなる。

 また、夢渡りの儀式がくる。

 そう思いながら校庭で昼休みを過ごしていた。ただ、いつもは控えているファリスが外していた。

 混沌の神は夢を渡ってくるため、逃げようはないのだ。

 胸に空いた黒い穴があの不気味な神につながるとの連想はたやすい。

 時期が来なければ死ぬことはないと、ここに来た当初に投げつけられた言葉もまた、容易に思い出すことができた。

「誰だって、必ず死ぬんだ………」

「早いか遅いかの違い」

「苦しむか苦しまないかの違い」

 必死で自分に言い聞かせる。

 わかっている。

 けれど、あまりに早すぎるだろう。

 わかっている。

 けれど、あまりに苦しすぎるだろう。

「逃げることなんかできないんだ」

 そう独りごちた。

 その時。

 何かが頭に被さってきた。

「ごめんなさい。ハンカチが………」

 甲高い悲鳴の後で、可愛らしい謝罪の声が聞こえてきた。

 ハンカチを手に、トオルはひとりの少女を見上げた。

 赤味のかかった褐色の瞳が、素早くトオルを値踏みしてくる。その際、彼の胴着に目を見張ったように見えた。

「この学園の生徒です?」

 ハンカチを受け取りもせず、高めの声が、訝しげに訊ねてきた。

「あ、ああ」

「お名前は? わたしは、ミュケイラ・ジャヴァ」

 にっこりと笑んでそう告げる。

「ジャヴァ?」

 聞き覚えのある苗字に、首をかしげる。

「はい。ジャヴァ大公の娘ですわ。あなたは?」

「………トオル」

 ジャヴァ大公と言われ、心臓が大きく脈打つ。

 では、この少女は、アヴィシャの娘なのか−−−と。

 挨拶をしたほうがいいのか? それとも、知らぬ振りでいいのか。

 アヴィは、自分に娘の存在を教えてくれてはいない。

 会ったこともなかった。

「どちらのお家の方ですの?」

 そう訊かれて、はたと、瞬いた。

 元の世界の苗字は忘れるようにと言われていた。今となっては、当然のこと意味もない。入学当初名乗ったのは、ただのトオルとだけだったような記憶がある。

「家名は別にありません」

 そう言った途端、

「庶民?! なんてこと! 庶民のくせに、なぜ?! どうしてアグリアメタクシの胴着を着ているの」

 聞き馴れない単語に、トオルが戸惑う。

「これは、庶民なんかが着ていいものじゃないのよっ」

 言いながらトオルの肩に手をかけてくる。

 かすかな痛みに眉間が歪んだ。

 ハンカチが、手から落ちる。

「わたしですら、手に入れられないのに」

 ハンカチを踏んだことさえ気づかずに、少女の揚げた甲高い声に、唖然と目を見開いた。

「どこに行ったのかと思ったらこんなところで何をしている」

 大きな声とともに、背の高い男が近づいてきた。

「王太子さま」

 まるで語尾にハートマークがついたかのような甘い声だった。

「ヴァイスと呼ばぬか」

 青銅色の髪の毛の男の声もまた、同じくすぎるほどに甘やかだった。

「ヴァイスさま」

 呆然と目の前の出来事を見ていると、

「御前でいつまで座っている」

 男の背後に控えていた騎士らしき男が、トオルを叱咤する。

「バルマ王国王太子殿下であられる」

 戸惑いつつも、椅子から立ち上がる。

 けれど、これからどうすればいいのか、トオルが知るはずもない。

「アグリアの絹をまとっているな。そなた、公家のものかそれとも、侯家か?」

 それにしては見覚えないが。

 トオルを見る青銅の目が、酷薄な光を宿す。

「いいえ。このひと庶民なのですって」

「なに?」

 癇性そうな皺が男の眉間に刻まれた。

「そなた、法を知らぬのか?」

「っ」

 騎士が腕を背後にひねり上げ、背中を押してきた。

 地面に直に座らされ、痛みに顔が歪む。

「王侯、もしくは巫女しかアグリアの絹をまとうことは許されておらぬのだぞ。しかもその意匠はどこぞの王侯のようではないか」

 そんなことを言われても困る。

 それが、トオルの正直な気持ちである。

 そんな法など、トオルが知るはずもない。が、相手もそのことを知るはずがない。

「身につけてはならぬものを身につけた罰だ」

 顎に騎士が手を上げて顔をもたげさせる。露わになった襟元に王太子が指を引っ掛け力任せに引っ張った。

 儚い音を立てて、脆くもない布地が裂ける。

 その時だった。

 野次馬の列ができていたことに気づかなかったのは、当事者たちだけで、いつの間にか遠巻きに彼らは見られていた。そのうちの幾人かが探して知らせたのだろう、ファリスがようやく駆けつけてきた。

「トオルさま」

 駆けつけたファリスが脱いだ上着をトオルに羽織らせる。

「ファリスじゃないの」

 ミュケイラの声が訝しげにその場に響いた。

「誰だ」

 王太子の誰何に、

「大公家の従者にございます」

 深々と頭をさげる。銀の髪が、さらりと音たてて彼の顔を隠した。

「その従者がなぜ、ここにいる。しかもその庶民を気にかける」

「失礼ながら。トオルさまは庶民などではございません。大公閣下の庇護を受ける身でございますれば、この服装は法に抵触いたしておりません」



*******

 レスです。

trapさま

明けましておめでとうございます。こちらこそ、旧年中はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。

 ご実家でのご奉仕、お疲れさまでございました。
 「オリエント急行」ご覧になられましたか? 楽しかったのならいいですね。
 そうか。映画正月は安いのですね。………存じませんでした。
 それでは、非常に簡単で申し訳ないのですが、この辺で。
 三が日お疲れさまでした。
暫定 無題 12回目
 いつもご来訪ありがとうございます。

 ということで、12回目ですかね。
 ケイティのホラーパートなので、筆が進まないです。
 縊死で血まみれ床なんて〜と思わなくもないですが、体液垂れ流しを描く勇気はない。視覚的にも血まみれのほうがインパクト強いだろうから、血まみれ。あと、レイヌさん、ライバルの前に顔を出すのにそんな縊死の顔って〜と思わなくもないけど、死んだ直後くらいの姿で出てくるのが穏当かなぁということで。血まみれと相乗効果があるかもしれない。イメージ的には「ナービー」という古いホラーコミックスの死霊的な外見かなぁ。
 まぁ、書けば書くほどちゃちくなるのは、如何ともし難いですが、ホラーを書くのは難しいわ。つくづく。
 しかも主眼がケイティだしねぇ。やっぱりヒロインより………となっちゃうのはJUNE! だもんこれ。開き直る。

 そんなこんなで少しでも楽しんでいただけるといいのですけどね。

***** 以下







 ***** 







 足元を凝視したまま悲鳴が喉の奥に凍りつく。

 まだ午後になったばかりだというのに。

 ここは、自分の部屋だというのに。

 一体、自分に何が起きているというのか。

 手紙が足元に落ちてゆく。

 頭の中にはただ”どうして”という疑問ばかりが次から次へと途切れることなく湧きあがるばかりだった。

 薄い封筒が、床に広がる赤い液体に染まってゆく。

 懐かしい故郷の友人からの手紙が見るも無残に赤く染まり果てる。

 侍女が控える、控えの間と呼ばれる部屋を抜けて自分の部屋のドアを開けた瞬間、水音がかすかにした。

 異臭がわずかな時差の後に鼻腔に充満した。

 目の前に広がるのは、赤だった。

 血のような、赤。

 ほんとうの血なのかもしれない。

 この鉄錆たような鉄臭いような生臭い匂いには記憶があった。

 どれぐらいそうしていたのか。

 嘔吐きあげそうになるような粘つく水音に顔を上げた。

 そうして。

 わたしは、そこに、見たのだ。

 赤いドレスを身にまとい、恨めしそうにわたしを見ている”それ”を。

 ”それ”が、生きていないことは、一目でわかった。

 恨みがましそうな苦しそうな上目遣いの三白眼。

 だらりと長く伸びた青紫の舌のせいか下がった口角。

 倍ほどに伸びて細長い首には、苦しさのあまり引っかいたのだろう傷跡がおびただしくも生々しい。

 そうして、その傷跡を作ったのだろう、いびつにひび割れた、指の爪には、赤い血が。

 悲鳴は出なかった。

 ただ、生理的な嫌悪からか、どうしようもない恐怖からか、涙があふれた。

 逃げなければ。

 ”どうして”という疑問を押しのけてわずかばかり建設的な思考が蘇ったのは、その超自然的なものの目がぐるりと音立てるかのように動いてわたしを見たからだ。

 それと同時に、その手がわたしに向かって伸ばされたからだ。

 下がった口角が、不自然に持ち上がっていったからだった。

 憎々しげに、心底にくい相手をおどかせたと言わんばかりの醜怪な笑い顔に、わたしの足がようやく動いた。

 それを皮切りに、手が、からだが、全身が。

 背後に数歩どうにか動けた。ドアの後ろにいる自分に気づいて、思いっきりドアを閉めた。

 それだけで、全身が汗まみれになっていた。

 ドアに背中を預けたまま、わたしはその場に腰を落とす。

 そんなわたしに、いつからいたのか、侍女が声をかけてきた。

「どうなさいました」

 あまりに平凡な、それまでの恐ろしい情景と懸け離れたことばに、差し出されてきた侍女の手にすがるようにして立ち上がりながらヒステリックな笑い声をあげていた。

 ほとばしる笑い声を止めることができなかったのだ。

 
暫定 無題 11回目?
 いつもご来訪アンド拍手コメントありがとうございます。レスはのちほど。

 暫定無題こちらに。
 なんか、こう、もう少しねちっこくディープに書きたいんですが、文章があっさりしてる気がして仕方がないです。ううむ。

 それでは、以下。

***** 11回目




 夜。

 ハロルドでさえも寝入っただろうに違いない深夜遅く。

 何もない夜に、不意に僕は目覚めた。

 誰かに頬を張られたかのような突然の覚醒だった。

 おそらく、その感覚は正解だったのだろう。

 心臓が止まるような恐怖に、僕は目を閉じる術さえも忘れてそこを凝視していた。

 間違いなく暗い闇の中に。

 ろうそくの灯りひとつ、電灯の灯りひとつない室内に、ぼんやりと浮かび上がるそれ。

 それ自体が光を放つのか、ぼんやりとうっすらと靄のような霧のような光のようなものをまとい浮かび上がるのは、間違いなく、母だった。

 いつか見た悪夢の中で首を吊って死んでいた母そのままの姿には、記憶の底にある貴族の令夫人の美しさなどどこにも見当たらず、ただ、常ならぬものを見ているという恐怖に襲われる。

 起き上がろうにも逃げようにも動かぬ全身に、おぞましい存在が身近に存在するということに、冷たい脂汗がにじみ出る。

「ははうえ………」

と。

 乾いた口でそう呟いたはずだった。

 けれど、声は出ない。

 くちびるは動かない。

 惚けたように開いていた口から、空気が漏れるかのようにかすかすと音が溢れるだけだった。

 全身を小刻みに震わせながら、それでいて目を瞑ることさえも忘れたような僕の目と鼻の先に、ついと、迫ってきたのは、母の顔だった。

 くちびるからだらしなくぞろりと伸びた長い舌が、僕の顔に触れる。

 青みを帯びて紫に変色したそれがやけに生々しく感じられて、

 ヒッ−−−と、息を呑むような短い叫びが喉の奥から漏れたような気がした。

 実際には、それさえもできないほどにきつい超自然の拘束に、悲鳴さえあげることはできなかったのだけれど。

 乱れた髪の間から覗く白眼の割合の高い目が、僕を凝視してくる。

 その目にあるのは、当然のこと慈愛や懐かしさなどではなく、ただただ恨めしいと、憎たらしいと、そういった嫉妬めいたものばかりで。それが、僕をいっそうのこと震え上がらせるのだ。

 眼球を覆うことなく溢れてこぼれ落ちる涙がこめかみを滑り落ちる感触に、これが間違いなくリアルなのだと、ただの悪夢なのじゃないのだと、思い知らせてくる。

 首筋に触れてくる尖った爪先の感触に、あの遠く幼い日に絡みついてきた母の手を思い出す。

 僕を殺そうとした、母。

 それまでも、間違いなく、僕を甚振りつづけた、母のたおやかな手。

 震えは止まらない。

 涙は止むことなく、視界を遮る。

 それだえもが怖かった。

 次に何が起きるのか、目で見ることができないことが。

 怖くて、怖くてたまらなくて。

 悲鳴をあげることさえできない自分が情けなくてならなくて。

 ぞろりと湿った何かが僕の頬に触れた。

 それが何なのか考えるまでもなく。

 それと同時に、僕の首をきつくきつく締め上げてくる。

 綺麗に整えられたピンク色の爪が、僕の喉頸を突き破る。

 そんな怖気さえ覚える情景が、脳裏をよぎって、そうして僕は意識を失ったのだ。





「横になられませんか」

 トーマスの言葉に、僕は僕がいつの間にかカウチに座ったままで眠っていたことに気づかされた。

「いや、いい」

 少し身じろいだはずみで膝に開いた画集が音を立てて床に落ちる。

 それを拾い上げるトーマスのつむじを通り越して、窓の外を僕は眺めた。ピンクや白の花をつけ始めた沈丁花や椿などが見える。灰色の空の下、花々の彩りだけがとても優しく感じられた。カウチから立ち上がった僕は窓辺のカードテーブルの上のスケッチブックを取り上げて、新しいページを開いていた。

 クリーム色の紙の上に、鉛筆で線を描いてゆく。

 そう。

 花を描いていたはずなのだ。

 部屋の窓から見える沈丁花や椿を。

 それなのに、ここは。

 足元にコツンと触れてくる感触に視線を向けると、そこには黒猫がいた。

「おまえ、僕はここで何をしているんだろう」

 猫を抱き上げ、金の目を見やりながら呟く。

 記憶は、ない。

「ここは、北の領域だろうか?」

 問わず語りに、独り言散る。

 薄暗く埃っぽい廊下は屋根裏だろうと見当をつける。人の気配がないところから鑑みるに、北の領域に間違いないだろう。北の屋根裏は基本的に物置に使われているはずだった。

 くたびれて薄っぺらい絨毯を踏みながら、まっすぐに伸びる廊下を歩いた。

 暗い。

 以前はここに来れば落ち着いたというのに。

 今では、背筋を撫で上げてくるのは、ひりひりとする緊張感だった。

 僕の足音に混じって、心臓の音が大きく聞こえる。

 少しでも何かにすがりたくて、腕の中の猫を意識した。

 喉鳴りが聞こえる。

 三つの音にだけ意識を集中させて、光を求めて僕は主階段を目指した。





「父上、リボンを下さい」

 震える声で、そう懇願する。

 両手首さえ自分で父の目の前に差し出した。

 背筋が冷たい。

 全身が震える。

 父の、僕を見下ろしてくる眼差しが、訝しげなものになる。

 僕の部屋で、僕の寝台の上で何がこれから行われるのか、知らないわけもない。

 ただ、どうしてか、父はリボンを使おうとしなくなった。

「なぜだ」

 父の黒い髪が、その動きにかすかに乱れる。

「そういうのが好きになったのか」

 カッと全身に朱が走った。

 父の黒紺色の目を見ることができなくなる。

 なぜ、父は………。

「お願いですから」

 母が見ているのだ。

 見ていて、どうしてリボンを使わないと、後で僕を責める。

 リボンがなければ、僕になり代わることができないのだからと。

 その身を明け渡せと。

 父は、母のものなのだから、と。

 そのあまりに当然の理を僕が破ったと。

 死んだ母が、死んだ時の姿で、僕を責める。

 何度首を絞められただろう。

 母の尖った爪が肉を破る感触さえリアルなのに、朝が来れば、後形など露ほども残ってはいない。

 だから、誰も、気づかない。

 僕以外、母の執着に、未練に、気づくものはいない。

「わかった。ハロルド」

 え? と、思った。どうしようもなく昂った熱が一気に冷めてゆく。

「何をいまさら」

 平然と差し伸べた父の掌の上に、あの赤いレースのリボンが載せられる。

 この関係は罪以外のなにものでもないのに。本来なら、あってはならないことなのに。

 なぜ、そんなに平然と他人を−−−と。

「ハロルドたちが把握していないはずがないだろう」

 ”たち”と敢えて言うからには、執事たちはみんな知っているということになるのだろう。

「把握した上ですべてを取り仕切るのが仕事だ」

 さあ、手を出しなさい−−−と。

 ドルイドベルを鳴らしながら、父が僕に命じる。

「これは、お前の望んだことだ」

と。

 僕の手首に絡みつく赤いリボンの先で鳴り響くかすかな音色が、母の歓喜の笑い声に思えて僕は目をつむった。



***** こんな感じですかね。やっぱ、文章があっさりしてる気がする。もう少しねっちり描きたいのになぁ。


この辺でレスです。

trap様
 コメントありがとうございます。レス遅くなりました。

 「マジシャン」ですね〜。好きでしたよ。ただあの二人の間の感情って本当に恋愛だったのか〜が、謎です。愛情は愛情でしたが、なんかこう、章吾さんからユキちゃんへの感情って肉親への情って印象が強い気がして。ユキちゃんのほうは途中から恋愛っぽい感じかな? でも基本的に依存関係ですよね。と。まぁ、そういう救いのない関係性もフィクションなら好きなんですが。
 で、「新マジシャン」で二人とも死んでしまうという衝撃のラスト。なぜああなった? アドニスとスバルくんは途中で消えるし。何があったのか謎ですが。探偵助手の彼も消えたしねぇ。読み返したくなっちゃったvv

 夜食を食べないというのも手ですよ。お酒断ちとかね。まぁ、うお里も偉そうなこと言えません。最近ほんっとうにビスコにはまっちゃってて。なぜだ。

 それでは、寒いですが、温かい鍋でも突いて頑張っちゃいましょう。
 おやすみなさい。← まだ早い。

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 いつもご来訪アンド拍手ありがとうございます。レスは後ほど。

 「たとえば、それが」アップ。
 9月くらいからちょこちょこ書き付けてきていたもの。チェックして三ヶ所くらいエラー発見orz また直さなきゃ。

 異世界転移、悪役令嬢もののチョロイン枠の転移少女にちょこっと同情して生まれた話。
 ちょっとね。
 主人公、静かに暮らしたいなら黙っとれ! と、ついvv

 寄る辺ない身の上なんだもんなぁチョロインも。逆ハーとか私がヒロインとかではっちゃけてるように見えるけど、あれ、絶対そうしてないと足元が定まらずに怖いんだと思う。まぁ、穿ち過ぎな意見かもしれないけど、そうだと思ったんだよね。だって、周りの逆ハーチーム、チョロインに同情して、それで一緒にいるだけみたいだし。チョロイン力無いし。どうやら生贄として呼ばれたらしいし。そんなん知らされたら、荒れるわ。まだ頑張ってる方だよなぁと思ったんだよね。

 で、書いてみようとして、新たなチョロインを生んでしまった。ごめん、ミュケイラ。純然たる悪役にはならないと思う。なったら御の字かな?


 この頃の第五さん。
 寒がりわんこです。
 朝、ストーブつけてたら、真っ先にいい場所とります。邪魔vv
 わんこのくせに………ね。
 あと、寝言でうなされる回数が増えてる? 癲癇ではないと思う。癲癇だと飼い主もわからなくなるみたいだからね。ただ寝てて唸ってるだけだから寝言だね。どんな夢みてるのやら。


 さてさて、この辺でレスです。

trap様
 拍手ありがとうございます。
 カプメン、ストックしちゃいますよね〜。
 普通のカップヌードル買おうと思ったら、焼きそばより高かった。あれ? サイズが大きかったのだろうか。
 缶詰も、母がストックしてますね。結構コーンとかトマトとかが多いかな。あとあさりか。うお里の好みで最近はスパムもありますが。レトルトは案外ないけど、正月前にカレーを買うのが我が母です。簡単ですしね。
 ダイエット………先週先々週がちょとシャレにならないくらいボンっと太っちゃって、今週は節制だと思いつつ、ビスコにはまったうお里です。
 そうですねぇ、うお里はウィークデイになるたけ糖分を控えてます。料理に使ってるのは仕方ないけどお菓子系はできるだけパス。疲れてると手が伸びるんですけどね。だからかなぁ、休みの日がやばいです。あとは、1日2食まで。夜は確実にきます。だもので、よっぽどじゃないと食べませんよ。我が家は女ばっかりなので、全員それでもオッケーですが。男性がいたら、ダメ出しですね。これ。ぜったい。
 仕事してたら、食事抜くのは案外簡単ですから、いけるのですが、休みがね。
 それでは、火曜日から寒いらしいですが、お互いぬくぬくとして過ごしましょう。
 おやすみなさい。
暫定無題 8回目訂正&9回目
 いつもご来訪ありがとうございます。

 そんなこんなで、少々手直しして付け加えてみました。


以下********






 *****







 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。

 目は腫れていることだろう。

 鏡を確認するまでもない。

 まぶたが重い。

 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。

 しかも、相手は、義母上なのだ。

 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。

 感じ取ったのは、嫌悪だった。

 なぜ。

 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。

 約束通り、ピアノも届けさせた。

 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。

 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。

 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドから聞いていた。

 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。

 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、腱を傷つけられて力の入り辛い左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に指を開いて、鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのさいのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。右手からも徐々に力が抜けて行く。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。

 そんな思いから逃れたかったのだ。

 けれど、ピアノをしまいこむのは切なくて。

 だから、居間から動かす事ができないでいた。

 その思いに区切りをつけてくれたことに感謝していた。僕の代わりに弾いてくれるひとがいるのだと思えば、ピアノが埃をかぶることもないのだと思えば、嬉しかった。

 それなのに。

 これは、なぜ。

 黒光りのする艶やかな塗料がささくれて、下の木肌までもが傷んでいる。

 ざらりと肌をこする感触を指先で辿っていた。

「御曹司っ」

 声量を抑えていながらも鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。

 いつの間にか右手に持っていたペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。それをトーマスが取り上げたのを、目の隅で捉えていた。

「こちらへ」

「え?」

「お早く」

 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。

「いつ?」

 どうして?

 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。

 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。

 それでも、忘れられなかった。

 僕のものであったピアノに刻まれた無残な傷跡。

「ピアノ………」

「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」

 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたのだと彼が思っているのだと、けれどそれが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。

 それでも。

 全身が震える。

 震えが止まらなかった。

「僕じゃない………」

 信じてもらえるかどうかはわからない。

 けれど、あんなこと、どうしてするだろう。

 その場に膝をついた僕の二の腕を、

「失礼いたします」

 言いざま掴み、立ち上がらせられる。

「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人に見られてしまいます」

 引き摺られるように先導されるままどこをどう歩いたのか、

「どうか、心安らかに落ち着かれてください」

 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。

 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。

 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。

 僕の震える手をそっと取って、寸胴のマグカップを握らせてくる。

 両手で包むように持ったカップを口元へと持って行く。

 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。

「大丈夫です。大丈夫ですから」

 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。

 飲み下す。

 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。

 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。

 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。

 全身の震えに、荒い息が取って代わる。

 どうして。

 なぜ。

 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。

 どうして、ピアノが傷つけられていたのか。

 もしかして。

 本当に、僕が傷つけたのだろうか?

 ようようのことで僕の耳に入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。

「トーマス………あれは僕じゃない。ピアノを傷つけるなんて、僕がするわけがない! けれど義母上の部屋に無断で侵入していたことは事実だ………………。もしかして、ならば、あれもこれも………記憶にないだけで僕がしでかしたことなのかもしれない」

 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。

「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」

 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。

 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。

 床に両膝をついた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。

「あれらは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」

 大きな声ではないけれど力強いその響きに、

「なぜ」

 そんなことばが転がり落ちていた。

「なぜ断言できる」

 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。

 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。

 彼の手が、お仕着せのジャケットの隠しポケットから何物かを取り出す。

「それ………は」

 プラチナの持ち手にサファイヤが象嵌されたそれは、確かパブリック・スクール入学の祝いにと父が僕に送ってくれたペーパーナイフだった。

 無意識に伸ばした掌に、トーマスが静かに乗せてくる。

「………覚えておられませんか? このペーパーナイフが見当たらないと御曹司が私に伝えてきたのが昨日の午前中のことでございました。あれから私どもが探しておりましたが、力が足りず見つけられずにおりました」
 そういえば。

 取り寄せた書籍を読もうとしてペーパーナイフがいつもの場所にないことに気づいたのだった。居間のカードテーブルの上にいつも置いていたのだ。そこなら、暖炉にもソファにも近い。書斎を使うことのない自堕落な生活をしている僕にはちょうどいい場所だった。それが見当たらず、結局トーマスに探しておくよう言いつけて代わりのペーパーナイフを使ったのだった。

「失礼いたします」

 掌の上から取り上げて、定位置に戻す。

「それにもう一つ。おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」

 ひそめた声に、頭から冷水をかけられたような心地だった。

 ああ。

 ああ。

 そうなのか、と。

 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。

 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。

「………」

「御曹司?」

 沈黙に顔を上げたトーマスに、

「ならばあれらは、僕ではないと、信じていいのだな」

「御意」

 ほかに何が言えただろう。

「わかった。下がっていい」

 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。

 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。

 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことに対する罪悪感は消えていた。







 ***** 







 一通の手紙がわたしの手から落ちた。

「ピアノが………」

 どうして。

 滑らかな光沢を宿す黒いボディの所々に傷が刻まれている。

 無残な傷跡からは、地の黄土色の地肌までもが顔を覗かせている。

 ブランド名を確認するまでもなく、鍵盤をポンと叩くことで飛び出してくる音色で、とても高価なピアノだとわかった。

 おそらく、これ一台売れば、立派な家を建てることができるだろうほどに高価な。

 そんな途方も無いものを−−−と、息を呑んだ。

 それ以来、アークレーヌさまから譲り受けて以来、日に最低一時間は触れていたピアノだった。

 侍女が言うにはアークレーヌさまのピアノの腕前はとても素晴らしいものだったらしい。

 直接耳にするのはウィロウさまやバレットや側近たちぐらいだっただろうという話だけれど。時折り居間で弾いていらっしゃる音色が開いた窓から庭に漏れ聞こえることがあったそうで、その時には誰もが仕事の手を止めてしまうほどの美しい音色を奏でられていたという。

 それは決して、ピアノの性能のせいばかりではなかったのだと。

 そんなに上手な方と比べられるのは恥ずかしかったけれど、大切な手を傷つけてピアノを弾くことができなくなってしまったアークレーヌさまから譲り受けたのだからせめて一日一度は触れるようにと心がけていたのだ。

「痛い………」

 無意識に撫でていた天板のささくれ立った棘が、指の先に刺さる。

 エドナがいなくてよかった。

 そんなことを思う自分にハッとする。



 どうも今日はようすのおかしいエドナに部屋で休むように言って別れたのは二時間ほど前のことだった。



 アークレーヌさまのお部屋を後にして、でもでもと繰り返すエドナを南の領域の一階にある彼女の部屋へと送って行った。そうでもしなければ、頑としてわたしの部屋に来るような、そんな表情をしていたからだ。

「ね。今日はゆっくりお休みなさい。たまにはわたしの相手をしなくてもいいのよ。毎日べったりひっついていたりしたら、誰だってちょっとくたびれちゃうでしょ?」

 そう笑って見せたわたしに、

「でも。それが、わたしの仕事で存在意義ですから」

と、尚もついてこようとする彼女の肩を押しとどめたわたしの頬が引きつっているだろうことが感じ取れた。

 そう。

 仕事なのよね。

 お友達でいる仕事。

 それが、レディース・コンパニオンの存在意義だとはわかっている。

 けれど、面と向かって断じられてショックを受けないほどわたしの心は強くは無い。

 エドナの部屋のドアの外で立ち尽くして、動けなくなる。

 どうしよう。

 こういう時どこにも行くことができない自分に気づいた。

 ウィロウさまにお会いしたい−−−と強く思った。

 その思いがだんだんと強くなってゆく。

 お会いできなくなってどれくらいになるのだろう。

 同じ敷地で暮らしているというのに。

 今暮らしている同じ領域の奥にウィロウさまのお部屋はあるというのに。

 お会いしたくて。

 せめて、お顔を見たくて。

 お声をお聞きするだけでもいいのに。

 こみ上げてくる切なさに、足が惑う。

 行こうかどうしようかと。

 冷静に考えれば、きっとウィロウさまは西の領域にいらっしゃるのに違いないのだけど。この時のわたしは、東の領域にいらっしゃるに違いないと勘違いしていたのだ。

 グラウンドフロアには下りず、緩やかにカーブを描く大階段をゆっくりと上る。

 天窓から降り注ぐステンドグラスに染まった陽光がとても美しかった。

 ゆっくりと、一段一段登って行く。

 ウィロウさまにお目にかかろう。

 わたしはそのことしか考えていなかったのだ。

 そうして、それは、たやすく叶えられた。

 あまりにも拍子抜けするほどに、あっさりとお会いすることができた現実に、わたしはすこしだけあっけにとられていたのに違いない。



 規則正しい靴音に足を止め、振り返った。

 そこには、見覚えのある男性がいた。

 男性の容姿をどうこう言うなどはしたないことなのだけれどあえて言うなら、わたしがミスルトゥ館で見かける男性使用人は庭師や馬丁以外を除けば上級使用人だけなのだけれど、総じて整った顔をしている。その中でも一二を争う美男子がハーマンとハロルドだろうと思う。ハロルドの一見穏やかなようでいて芯の通った厳しい美しさに侍女たちは気後れする様子を見せていたが、ハーマンはまだ二十代前半ということもあってかストイックなお仕着せに身を包んだせいで逆にその色香が増して見えるらしく逆に侍女たちの憧れを掻き立ているようだった。しかし、それはあくまでも水面下のことで。アルカーディ家の分家にあたるらしい男爵家子爵家をはじめとした下級貴族や郷士、商人、豪農の家から行儀見習いに来ている彼女たちは密やかに色めき立ちはするものの、あえて色恋へと行動を移すことはなかった。そうだろう。身を謹んで勤めていれば、侍女長や家令が当主に相応の縁組を進言してくれることさえもあるのだ。公爵の許可した縁組は、彼女彼らにとっては将来を約束されたようなものなのだから。下手なアバンチュールは身を持ち崩す原因にしかならない。少なくとも、ここ、アルカーデン公爵家ではそう考えられているらしかった。

 ともあれ、後ろから銀の盆に茶器を乗せて階段を上ってきたのは、ハーマンだった。

 わたしが途中で足を止めたことにハーマンがほんの少し首をかしげたように見えた。

「奥方さま、どうかなさいましたか」

 スラリと背筋の伸びたとても美しい立ち姿で、ハーマンが声をかけてくる。その声の甘やかなこと。侍女たちが色めき立つのがわかるような気がした。

「奥方さま?」

 訝しげな声に、

「ウィロウさまにお会いしたいのです」

 我に返った。

「それでございましたら、西の領域二階の奥までご案内いたしましょう」

 どうぞ。

 そう先導してくれるハーマンの後に続きながら、ああそうだったと、自分の思い違いを少しだけ恥ずかしく思ったのだった。


暫定無題 8回目
 いつもご来訪ありがとうございます。

 いろいろ設定変わってるので、微妙ッちゃ微妙なのですが。
 とりあえず、バックアップ兼ねてますのでご容赦。

*****



 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しくてたまらない。

 頭の中に浮かんで消える、母の記憶が、僕を責める。

 苛む。

 愛していたひとと結ばれることなく、僕を生まなければならなかったレイラ。その苦しみ。愛するひとと睦みあうことのできない苦しみは愛することのできない相手の子、自身が生んだ僕への憎悪へと変化して、そうして苛むことになった。それは彼女を慰めたのか。それともより苦しめることになったのだろうか。

 いつしか父を想うようになっていた自分に気付いた時、母は、自身の心変わりに絶望して僕を、僕と自分自身とを無に帰そうとした。

 ごめんなさい−−−と。

 僕の首に絡む白い手が、ざらりとした何かを僕の首に巻きつけて、とても優しく、力を加えてくる。

 喉に食い込む細い紐のようなものがもたらす痛み。

 息ができなくなる苦しさ。

 すぐそこに迫った死へたどり着くまでの、気が遠くなるほどの苦しさ。

 あの恐怖。

 あなたのお父様を愛してしまった−−−

 それなのに、あなたを愛することができない−−−と。

 荒れる鼓動の合間に聞こえてきた彼女の血を吐くような贖罪の音色。

 愛せない。

 でも。

 愛してしまった。

 わたしのあのひとを、裏切ってしまったの。

 この心は、永遠にあのひとのものであるはずだったのに。

 だからこそあなたを、あなたという存在を許せなかったのに。なのに。ウィロウさまを想う心は、あなたを愛することを許してくれない。あなたをこれまで散々に傷つけてきたこんな女があなたの母であることを、許してくれない。今まで苦しめつづけてきた記憶が、それを良しとはしてくれない。だから、だから、消えてちょうだい。

 一体なにがきっかけであったのか。

 僕は知らない。

 ただ、悲痛なまでの謝罪に、僕は霞む視界に母を映しているばかりだった。



 朦朧となった意識の中で、母の独白が、悲鳴へと変わる。

 周囲が騒々しくなった。

 誰かが僕を抱え上げ、僕の全身が揺れる。

 誰かが母を鋭く呼ぶ声が耳を貫いたと思った。

 けれど、それはもう僕にはどうでもいいことで。

 もう僕は死ぬのだと。

 それほど、母は僕を嫌っているのだと。

 絶望が静かに僕の意識を絶ったのだった。







 あの後、父の後妻に振り払われ情けなくも気を失った後、僕が気づいたのは寝室のベッドの上だった。

 まだ空は明るく、昼前であることを僕に問わず語りに教えてくれる。

 夢の中で散々思考を空転させた後の嫌な気分のまま、僕は上半身を静かに起こした。

 ぐるぐると止まることなく僕を苛む嫌な出来事の数々と、嫌な思考の数々。

 吐き気がする。

 こんなにも情けなく、醜い生き物であることに。

「御曹司」

 水を差し出してくる忠実なヴァレットに反応を見せることさえも億劫でならなくて、そのまま僕は髪をかきあげた。

「………義母上には、お子が出来ていたのだな」

 お前は知っていたのか?

 掠れた声が喉を痛めつける。

「はい」

と、ヴァレットが静かに答えた。

「御曹司におかれましては、興味がおありになられないだろうという判断をいたしておりました」

 −−−それは、半分は正しく、半分は誤っている。

 しかし、どうしてそれを彼が知るだろう。

 彼は、僕が母に囚われていることを知らない。

 いや。

 それとも。

 知っているのだろうか?

 じっとりと、彼の顔を見返した。

 知っているからこそ、興味がないと判断をしたのだろうか。

 僕と父の、おぞましい関係を。

 いったいどっちだろう?

 おそらくは、次のハウス・スチュワードとハロルドから目されているだろう、このよく気の回るヴァレットの灰色の目の奥を覗き込む。

 油照りの日の海のような瞳が、僕を見返してくる。

 それに気づいて、心臓が大きく跳ねた。

 とっさに、顔を背けていた。

 ぞわりと背中を駆け上り後頭部を逆毛立たせたのは、恐怖だった。

 最近では忘れがちになっていた、見られていることに対する恐怖が、蘇る。

 しかし、それを、従者に見せるわけにはいかない。

 知られていても、己からそうと見せるわけにはいかない。

 たとえ、これまでにおびただしいほどの醜態を晒してきていても−−−だ。

 顔を枕に伏せた。

「ひとりにしてくれ」

 くぐもった声が出る。

「承知いたしました」

 静かに諾い出て行く気配があった。

 独りになったと理解して、ぐるりと寝返りを打つ。

 額に手を乗せる。

 天蓋の裏側が霞んで見えた。







 ***** 







「こちらに新たな子供部屋を設えるおつもりですか?」

「まだ犯人もわかっていないというのに、南の領域に戻れとおっしゃるのですか?」

 ハロルドにエドナが食ってかかるのを横目に、わたしは居間のソファに腰を下ろしていた。

 なんてことを−−−反省ばかりが頭の中を乱していた。

 なにをしてしまったのだろう−−−。

 手を差し伸べてくれた相手を。

 お礼すら口にせず、罵ってしまうなど。

 けれど。

 あの時、襲い掛かってきたのは、間違いなく、嫌悪感だったのだ。

 どうしようもないくらいの、生理的な嫌悪だった。

 証拠などはない。

 それなのに、あの疑惑は、どうしようもなくわたしの心に根付いてしまっていたのだ。

 同性なのに。

 親子なのに。

 そんなことがあるはずがないと思えば思うだけ、あの朝の廊下でのやりとりが頭の中で鮮やかなものへと変化を遂げてゆく。

 義理の息子、アークレーヌさまの前髪の下に隠されていたとても綺麗な顔。

 女性とは言いきれず、かといって、男性とも言いきれない。そんな、中性的な印象の顔が、媚びるような艶やかな色を帯びる。

 うっすらと白桃色に染まった頬が、首が、鎖骨が。

 露わになった胸元が。

 そこにくちびるを寄せるのは、ほかならぬウィロウさまだ。

 ああ!

 両手に顔を埋めた。

「奥さまっ?」

 エドナの声が耳を射抜くほどの激しさだった。

 おかしい。

 わたしは、きっとおかしくなっている。

 こんな、あるはずもない、いやらしい想像をしてしまうなんて。

 それも、わたしの夫と、夫の実の息子とで。

「奥様」

 ハロルドの落ち着いた声が、まるで外国産の張りのあるコットンにも似てわたしの動揺した心を落ち着けてくれるような心地がした。

「お部屋を乱した不心得者が見つかるまで、新しく設えられるのはおやめになられた方がよろしいのではと」

「………それは、旦那さまのご提案なの?」

「はい」

「それならば、早く犯人を見つけてちょうだい」

 ハロルドが腰を深く折る。

 そのまま踵を返して部屋を出て行った。

「奥さま」

 今日はエドナの声がどうしてだか鑢のように癇に触る。

「少しひとりにしてくれる?」

 エドナの榛色の瞳がどこか不満そうに揺れた。

「今の奥さまをひとりになど!」

「そう。ありがとう」

 どう伝えよう。

 対面のソファに座ったままのエドナに、

「さっき、外でのことだけれど。あれは、言い過ぎだったわ」

 口調に、エドナの表情が紙のようになった。

「けれどっ!」

「ええ。ありがとう。わたしを慮ってくれたのよね。わかっているわ。それに、わたしの行動も悪かったのだと理解しているわ」

 けれどね。

「エドナ。あなたが知っていたのかどうかはわからないけれど、あなたが咎めたのは、アークレーヌさまなのよ」

「アークレーヌさま?」

 ぽっかりと、エドナにしては間抜けな表情で繰り返す。

「そう。アークレーヌ・アルカーディ、次期アルカーデン公爵よ」

「そんなっ」

 悲鳴をあげる。

 エドナはアークレーヌさまのお顔を知らなかったのか。

 そんなエドナを見ながら、わたしはアークレーヌさまに謝らなければと、考えていた。
 
 嫌悪は嫌悪として。

 疑惑は疑惑として。

 謝罪はしなければ。

 手を振り払ってしまった。

 罵ってしまった。

 それに。エドナも、わたしを思えばこそではあったのだろうけど、あの態度はいただけない。アークレーヌさまは次代の公爵さまなのだ。

「着替えます」

 控える侍女に命じる。

「はい」

 ドレスルームのドアを開ける侍女を見ながら、

「エドナ。少し待っていて」

 着替えてなにをするとは告げず、ドレスルームに入った。

 薄い緑色のドレスを選ぶ。白いレースのブラウスに襟元からウェストラインにかけて深いV字に切れ込んだそれを合わせる。

 髪は編み込み、シンプルな髪飾りをつける。

 靴は部屋履きの楽なものに履き替えて、扇とハンカチのどちらを手に持つかしばし悩む。

 まだ呆然としているエドナを、

「さあ。北の領域に行きましょう」

 促す。

「なにをするために?」

 返された反応に、え? と思った。

「なにって、アークレーヌさまに無礼を謝らなければいけないでしょう」

「え? あ………ぶれい………無礼」

 ぶつぶつと呟きながらわたしを見上げてくるその瞳に、なぜだかゾッとした。

「エドナ。あなた、今日はおかしいわよ」

 そうとしか言えなかった。







 アークレーヌさまの従者がわたしたちを客間に通し奥へと消えてゆく。

 控えていた執事がすぐさま紅茶とケーキを説明とともに供してくれた。

 良質の紅茶の香りが空気に広がり消えてゆくのを楽しみながら、周囲を見やる。

 シンプルな部屋だった。

 あっさりしすぎていると言ってもいいだろう。

 あるのはソファとテーブル、後はライト。装飾品と呼べるものは、マントルピースの上や脇の壁に掛けられた大小数点の絵画だった。

 カーペットさえ敷かれてはいない。

「殺風景ですね」

 思わずといった態でエドナがつぶやいた。

 小さなそれを拾ったかもしれない執事は、壁際に佇み微動だにしない。

「エドナ………」

 今日のエドナは本当におかしい。

 いつもと違う雰囲気に、わたしもおかしくなりそうだった。

 まだアークレーヌさまは現れない。

 手持ち無沙汰も手伝って、ソファから立ち上がり絵に近づいた。

 五十号はあるだろう穏やかな春の風景が描かれたそれを鑑賞する。この国の田舎には珍しくないだろう、緩急のある丘陵地帯の放牧地に点々と散る羊の群れ。うっすらと靄がかったような空の色はぼんやりと琥珀色を宿したような光を宿す。

 のどかな風景画にアークレーヌさまはこういう絵画を好まれるのかと、心が穏やかになるような気がした。

 しかし、それも、逸らした視線が近くに飾られていた五点の一号ほどの素描画を捉えて、霧散した。

 風景画との不均衡さに、顔が引きつるのがわかった。

「これは………」

 暗い。

 偏執的なまでの執拗さで紙を引っかいたような細い描線が描き出すのは、この館を取り囲むガーゴイルたちの姿だった。

「なぜ、こんなものをモデルに」

 悪趣味としか思えなかった。

 まるで今にも紙から飛び出してきそうな、生々しい異形の鬼たち。

 嘆き、怒り、戸惑い、悲しみ、絶望にとらわれたものたちの心の底からの嘆きが聞こえてくるかのようで、わずかの”喜”を見出すことすらできなかった。

 鉛筆の黒と紙の白とのコントラストが、これほどまでに画家の内面を表すことができるのだと、わたしの背中が逆毛立つ。

 画家の名は? と、走らせた視線が、紙の片隅にあるサインを捉えた。

 そこには、

「アークレーヌさま?」の名が記されていた。

 ああ、そういえば。

 今朝のあの時も、従者はスケッチブックを手にしていたような気がする。

「気持ち悪いですね」

 失言が多い気がするエドナがそうささやいた時、ようやく、

「待たせてしまいました。申し訳ありません」

と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 振り返った先では、長い白髪で顔の半ばまでを隠したアークレーヌさまがソファまでやってくるところだった。後頭部で髪をくくり、ありふれた白いシャツと髪をくくるリボンと同色のジャケットとズボンといういでたちは、朝とは違っていた。

「いいえ」

 慌てて応え、ふたりしてソファへと引き返す。

 わたしたちが腰かけたのを確認して、アークレーヌさまがゆっくりと腰を下ろした。

 すかさず執事が紅茶を差し出す。

 ひとくち含み、

「それで、ご用件は?」

 ささやかな大きさの声が問いかけてきた。

「今朝のことです」

「………今朝?」

 長い前髪の奥、表情は判らない。

「はい。助け起こそうとしてくださったのに、あらぬことを口走った上に手を払いのけてしまって申し訳ありませんでした」

 頭をさげる。

 隣では、エドナもまた、

「わたくしも、まさかアークレーヌさまだとは存じあげなくてあんな暴言を叫んでしまいました。申し訳ありません」

 頭を下げた。

「謝罪など必要ありませんでしたよ。あのタイミングでは、仕方のなかったことです。僕の方こそ醜態をさらしてしまい、お恥ずかしい」

「では」

「赦してくださるのですか」

「許すもなにも、単にタイミングが悪かっただけのことでしょう。義母上も今は大切な時期でしょうから、おからだをお厭(いと)いください」

 立ち上がり、

「それでは、僕はこれで。トーマス、義母上とレディをお送りして」

 そう言って、客間を出て行った。

 アークレーヌさまがこちらを振り返ることはなかった。

 実際にアークレーヌさまと相対してみて、不思議なことに嫌悪感を抱くことはなかった。私たちに対する態度も普通のものだったと感じられた。あんな素描画を描くとは到底思いもよらない。その現実に、わたしはわたしのなかに根付いてしまった妄想があまりにも悍ましすぎたのだと痛いくらいに感じた。あんなこと、あるわけがないのだ−−−と。

 そんな風にいろいろなことに拍子ぬけして、しばらくソファから立ち上がることさえできなかったのだ。







 *****







 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。

 目は腫れていることだろう。

 鏡を確認するまでもない。

 まぶたが重い。

 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。

 しかも、相手は、義母上なのだ。

 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。

 感じ取ったのは、嫌悪だった。

 なぜ。

 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。

 約束通り、ピアノも届けさせた。

 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。

 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。

 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドが言っていた。

 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。

 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、力をなくした左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に手を開いて、指で鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。

 そんな思いから逃れたかったのだ。

 それなのに。

 これは、なぜ。

「御曹司っ」

 鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。

 右手に持ったペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。

「こちらへ」

「え?」

「お早く」

 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。

「いつ?」

 どうして?

 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。

 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。

 それでも、忘れられなかった。

 たった今、ほかならぬ己がしでかしたことなのだ。

「ピアノ………」

「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」

 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたものが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。

 それでも。

 全身が震える。

 震えが止まらなかった。

「なんてことを」

 その場に膝をついた僕の二の腕を、

「失礼いたします」

 言いざま掴み、立ち上がらせる。

「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人達に見られてしまいます」

 引き摺られるままどこをどう歩いたのか、

「どうか、心安らかに落ち着かれてください」

 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。

 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。

 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。

 僕の震える手をそっと取って、マグカップを握らせてくる。

 両手で包むように持ったマグを口元へと持って行く。

 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。

「大丈夫です。大丈夫ですから」

 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。

 飲み下す。

 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。

 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。

 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。

 全身の震えに、荒い息が取って代わる。

 それでも、己のしでかしたことがなかったことになるはずがない。

 どうして。

 なぜ。

 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。

 その上、ピアノを傷つけてしまうなど。

 もしかして。

 いつしか僕の耳にも入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。

「トーマス………あれも、僕がしでかしたことなのかもしれない」

 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。

「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」

 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。

 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。

 床に膝間付いた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。

「あれは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」

 大きな声ではないけれど力強いその響きに、

「なぜ」

 そんなことばが転がり落ちていた。

「なぜ断言できる」

 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。

 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。

「………おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」

 頭から冷水をかけられたような心地だった。

 ああ。

 ああ。

 そうなのか、と。

 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。

 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。

「………」

「御曹司?」

 沈黙に顔を上げたトーマスに、

「ならばあれは、僕ではないと、信じていいのだな」

「御意」

 ほかに何が言えただろう。

「わかった。下がっていい」

 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。

 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。

 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことやピアノを傷つけたことに対する罪悪感が消えていた。







7回目プラス
 いつもご来訪ありがとうございます。

 とりあえず本日二回目のブログですが。腰を痛めていたいです。しんどい。やばい。なぜだ?







 *****







 あれはなに?

 ほんの少し開けた扉の前で始まったウィロウさまとアークレーヌさまを含むやり取りに、わたしはドアから出ることができなくなった。

 何食わぬ顔で出ればよかったのかもしれない。

 けれど、できなかったのだ。

 だって。

 ウィロウさまのガウンを羽織られた後ろ姿はともかくとして、アークレーヌさまがなぜこの東の領域の廊下にガウン姿でいるのか。銀の縁取りのある濃紺のガウンの帯が不器用な固結びになっているのを微笑ましいと思えばいいのか、それとも乱れたさまのしどけなさにだらしないと思えばいいのか、混乱してしまったのだ。

 いくら男の方とはいえ、ガウンの下は素肌だろうことが容易に分かった。

 なぜならガウンの合わせは帯のところまではだけてしまっていて、困ったことにアークレーヌさまのぬめるような青白い首筋から胸元の一部が露わになっているためである。しかも、ガウンの裾からやはり青白く細い繊細そうな踝までも見ることができる。

 疑問だった。

 朝が早いとはいえ、なぜ、あんな格好で。

 さすがに直視するのは憚られて見ないようにしたけれど、青白い肌がうっすらと熱を帯びたように陰影のある桃色を宿したさまは、男女の夜の後のような隠微な艶めきを示唆してくるかのような錯覚を抱かせるものだった。

 けれど、アークレーヌさまのうっすらと血の気を宿した胸元に、それよりもひときわ赤い斑が数個あるのを見つけたような気がした。

 キスマーク(hickey)?

 心臓が大きく鼓動を刻んだ。

 なにを馬鹿なことを。

 自分のはしたない連想を打ち消す。

 考え付くことができるのは、何か相談事があっておふたりで遅くまで話し込んでしまってアークレーヌさまがお部屋に戻るタイミングを逃したことくらいだろうか。

 そう思った。

 だって、おふたりは父と息子なのだから。

 穏当な行動はそうだろう。

 他になにがある?

 だから、こんなところで息を殺して盗み見ていないで、普通に出て行って朝の挨拶をすればいいのだ。

 おはようございます−−−と。

 ことはそれで普通に戻る。

 はずなのに。

 目の前で繰り広げられるやり取りに、昨日覚えた不安が鎌首をもたげてくるのだった。

「アークレーヌっ」

 ウィロウさまがアークレーヌさまの腕を掴んで抱え込む。

 わたしといるときには見せることさえもなかったほどの激しさで抱きしめて、

「無理をする。それほど私の部屋に居たくないのか」

 聞いたことがないほどに真剣な口調で、まるで掻き口説くかのように言うウィロウさまに、心臓が握りつぶされるかの錯覚があった。

「いや」

 十六歳の少年のものとは思えないほど、力のない拒絶に、背筋がそそけ立つ心地だった。

 この声は。

「もう、いやだ」

 この口調は。

「いやなんだ」

 まるで………。

「旦那さま、このままでは御曹司の体調がまた悪くなられましょう。私がお部屋まで」

 わたしが口を掌で抑えた時、ハロルドの声が聞こえてきた。ちらりと彼がわたしの方を見たような錯覚があった。

 落ち着き払った彼の声に、ささくれ立った神経が癒される心地がした。

 ああ。やっぱり。

 アークレーヌさまは何かウィロウさまに相談事をしていて、そのまま体調を崩されたのだ−−−と。

 不思議な安堵感があった。

「ひとり、ひとりでもどれる」

 そんなアークレーヌさまの張りのない声に、

「青いな」

 ウィロウさまが顎を持ち上げられたのだろう。アークレーヌさまの前髪が乱れて、いつもはその下に隠されている容貌を刹那あらわにした。

「ハロルドについていってもらえ。それもいやだというなら、私が抱いて連れて行ってやろう」

 熱のこもった、まるで睦言を紡いでいるかのようなウィロウさまのことばに、わたしの顔は赤く染まり、足から力が抜けたのだ。

 ああ。

 ウィロウさまは………。

 その時、わたしの心の中には、ひとつの疑惑が芽生えていた。



 唾棄するべき、恐ろしい疑惑だった。



 彼らの姿が消えてしばらくして、わたしはふらふらと部屋を出た。

 心の中を占める妄想にも等しいものが恐ろしくてならなくて。

 それがもしも真実であったとしたら−−−。

 あまりにも恐ろしいそれに、ここから出てしまいたくてしかたがなかった。

 なんの証拠もありはしない。

 そう。妄想にも等しいものに過ぎないのだ。

 けれど。

 同様に。

 恐ろしいそれを打ち消す証拠もありはしないのだ。

 誰かに訊ねてみることだとて、できはしない。

 そう。

 例えば誰かに、

「ウィロウさまはアークレーヌさまを」

 小さく口の中で音にしてみただけで、考えるだけで、動悸が激しくなる。

 その先の言葉を紡ぐことができない。

 はしたないから?

 確かにその疑惑ははしたない。

 不道徳すぎる。

 あってはならないことだ。

 ひととして。

 親子として。

 口にするのも恐ろしいそれを、現実にもし仮に口にすることができたとして、おそらく、わたしの質問を受けた誰かは、狂った者を見るような視線をわたしに向けてくるだろう。

 誰にも。

 誰にも、問う術はない。

 ウィロウさまにも。

 ましてや。

 アークレーヌさまになど。

 おそらくは、彼こそが、わたしの、恋敵に違いないのだから。

 脳裏を、ぬめのような青白い肌が、桃色の陰影が、過る。

 十六の少年とは思えない細い首が、深く切れ込んだ鎖骨の儚さが。

 かすれた小さな声が。

 胸元の赤い斑模様が脳裏から消えてくれない。

 首を激しく左右に振った。

 違う。

 違う。

 違う。

 そんなことを考えてはいけない。

 けれど、そんなことに取って代わったのは、ウィロウさまに顎を取られて持ち上げられた時に乱れた前髪の隙間から見えた、彼の容貌だった。

 なぜ隠しているのか。

 ウィロウさまにも、先妻さまにも似ていなかったけれど、とても美しい顔だった。

「わたしは、いったい、なんのためにここまで来たのかしら」

 ぽつりと知らずつぶやいていた。

 誰も答えてくれるものはいない。

 朝が早かったこともあって、ルイザはまだ起きていないだろう。

 ひとりだ。

 ふらふらと、わたしはただ足の向くままに歩いていた。

 手近な石垣に腰を掛ける。

 いつの間にこんなところまで歩いてきたのだろう。

 遠く見えた、ヒースの花群れがすぐそこにある。

 ”孤独”

 あれだけ群れをなしていながら、ヒースの花言葉は孤独なのだ。

「こんなところになど来なければよかった」

 本国の素敵な公爵さまの求婚に、公爵夫人になれるという未来に舞い上がってしまった己の愚かさに自嘲がこみ上げてくる。

 丘陵を駆け抜ける春の風が、冷たくわたしに触れては通り過ぎてゆく。

 からだを震わせる。

 そうして、気がついた。

「いいえ! いいえ違う。わたしは孤独なんかじゃない」

 そう。

 まだ目立たないお腹をそっと掌で撫でる。

「ここには………」

 ウィロウさまとわたしの赤ちゃんがいる。

 わたしの疑惑がもしも真実だったとしても、わたしのお腹にいる赤ちゃんこそが、わたしにとって絶対の真実だった。

「あなたがいるわ」

 踵を返した。

 遠く、灰色の城館が見える。

 ミスルトゥ館と呼ばれるとても壮大な、異相を誇る、公爵家の居城が。

「ここがわたしの、あなたの家なのだから」

 決意を新たに、わたしは引き返した。

 まさか引き返した場所で、わたしをこんなにも苦しめた当の本人と出くわしてしまうだなどとは思わなかった。そうして、思わず彼を振り払ってしまい、罵ってしまうことになるだなど、想像だにしていなかったのだ。







 *****







 あれから、僕の頭を占めるのは、彼女に対する憎悪と嘆きだった。



 あれから−−−。



 そう。

 彼女−−−義母上、レディ・アルカーディが父の子を身ごもっていると知ってからである。



 なぜ。



 僕には−−−できないのに。



 耳の奥で、ドルイドベルの音色が聞こえる。

 誰かが、赤いレースのリボンを持って、僕に近づいてくる。

 それを待ち望んでいる自分に気づいて、僕は顔を両手で覆い隠した。

 来るな!

 こんな思考は、おかしい。

 幻の赤いリボンが、僕を呪縛しようとする。

 今、僕を縛めるリボンはない。

 だから、僕を支配しようとするな!

 今、ここに、ドルイドベルはない。

 僕は、僕のからだは、僕だけのもの。

 心も、僕自身のもの………だとすれば、この害意も、この絶望も、僕自身のものなのだろうか?

 違う!

 そんなはずはない。

 寝室のベッドにうずくまる。

 そんなことがあっていいわけがない。

 ふたりの母の呪縛も、父の呪縛も、僕を覆い尽くして、壊してしまいそうだった。

 赤いレースに込められたレイヌの呪いも、それをわずかに緩やかなものにしようとしたレイラの思いが込められたドルイドベルも、結局は僕のからだと心を縛るものでしかないのだ。

 誰のために?

 父のために。

 他の誰でもない、父のために、ふたりの女は僕を人形にしてしまった。

 彼女らが死んだ後、彼女らの意のままに操ることができる人形に。

 父を受け入れる器として。

 父を苦しめる道具として。

 そこにあったのは、父に対する愛情と憎悪。

 アルカーディの血に対する、恨み。

 ほんの少しの−−−僕に対する憐憫。

 呪縛を受けて父に抱かれているうちに、僕は、彼女らの思いを知った。

 絶望を。

 羨望を。

 それでも。

 このからだは、この心は、僕のものなのだ。

 それなのに、なぜ。

 どうして。

 当然とばかりに僕を支配しようとするふたりの女の呪いを拒む術を、僕は知らない。

 どうすればいいのかわからない。

 リボンもドルイドベルもないのに。

 まるで水を吸う紙のように、たやすく彼女らの呪いに浸されてゆく。

 憎い。

 どうして。

 産むことは許されなかったのに。

 それなのに、なぜ。

 なぜ。

 死ねばいいのに。

 渦巻く憎悪に吐き気がこみ上げてくる。

 
も、もうちょい!
 暫定無題 7回目

 あれはなに?

 ほんの少し開けた扉の前で始まったウィロウさまとアークレーヌさまを含むやり取りに、わたしはドアから出ることができなくなった。

 何食わぬ顔で出ればよかったのかもしれない。

 けれど、できなかったのだ。

 だって。

 ウィロウさまのガウンを羽織られた後ろ姿はともかくとして、アークレーヌさまがなぜこの東の領域の廊下にガウン姿でいるのか。銀の縁取りのある濃紺のガウンの帯が不器用な固結びになっているのが微笑ましいと思えばいいのか、それとも乱れたさまのしどけなさになにを思えばいいのか、混乱してしまったのだ。

 いくら男の方とはいえ、ガウンの下は素肌だろうことが容易に分かった。

 なぜならガウンの合わせは帯のところまではだけてしまっていて、困ったことにアークレーヌさまのぬめるような青白い首筋から胸元の一部が露わになっているためである。しかも、ガウンの裾からやはり青白く細い繊細そうな踝までも見ることができる。

 疑問だった。

 朝が早いとはいえ、なぜ、あんな格好で。

 さすがに直視するのは憚られて見ないようにしたけれど、青白い肌がうっすらと熱を帯びたように陰影のある桃色を宿したさまは、男女の夜の後のような隠微な艶めきを示唆してくるかのような錯覚を抱かせるものだった。

 なにを馬鹿なことを。

 自分のはしたない連想を打ち消す。

 考え付くことができるのは、何か相談事があっておふたりで遅くまで話し込んでしまってアークレーヌさまがお部屋に戻るタイミングを逃したことくらいだろうか。

 そう思った。

 だって、おふたりは父と息子なのだから。

 穏当な行動はそうだろう。

 他になにがある?

 だから、こんなところで息を殺して盗み見ていないで、普通に出て行って朝の挨拶をすればいいのだ。

 おはようございます−−−と。

 ことはそれで普通に戻る。

 はずなのに。

 目の前で繰り広げられるやり取りに、昨日覚えた不安が鎌首をもたげてくるのだった。

「アークレーヌっ」

 ウィロウさまがアークレーヌさまの腕を掴んで抱え込む。

 抱きしめて、

「無理をする。それほど私の部屋に居たくないのか」

 わたしの聞いたことがない真剣な口調で、まるで掻き口説くかのように言うウィロウさまに、わたしの心臓が握りつぶされるかの錯覚があった。

「いや」

 十六歳の少年のものとは思えないほど、力のない拒絶に、背筋がそそけ立つ心地だった。

 この声は。

「もう、いやだ」

 この口調は。

「いやなんだ」

 まるで………。

「旦那さま、このままでは御曹司の体調がまた悪くなられましょう。私がお部屋まで」

 わたしが口を掌で抑えた時、ハロルドの声が聞こえてきた。

 それにささくれ立った神経が、癒される心地がした。

 ああ。やっぱり。

 アークレーヌさまは何かウィロウさまに相談事をしていて、そのまま体調を崩されたのだ−−−と。

「ひとり、ひとりでもどれる」

 そんなアークレーヌさまの張りのない声に、

「青いな」

 ウィロウさまが顎を持ち上げられたのだろう。

「ハロルドについていってもらえ。それもいやだというなら、私が抱いて連れて行ってやろう」

 熱のこもった、まるで睦言を紡いでいるかのようなウィロウさまのことばに、わたしの顔は赤く染まり、足から力が抜けたのだ。

 ああ。

 ウィロウさまは………。

 その時、わたしの心の中には、ひとつの確信が芽生えていた。



 唾棄するべき、恐ろしい確信だった。


幽霊が絡まない〜
 いつもご来訪ありがとうございます。

 暫定無題6回目。

 幽霊話が絡んで来ません。
 やっと、ケイティとアークレーヌが絡めそうなのに………。
 困ったもんです。

 では、以下。






 *****







「自分が口にしたことを理解できていますか?」

 殊更に丁寧な口調ながらも嘲笑を隠しもしない声が聞こえてきたような気がした。

 その夜の僕は巣穴に引きずり込まれる獲物でしかなかった。

 ドルイドベルの音で僕の意識の半分は母の呪いに呪縛され朦朧としていた。

 ひたすらに混乱したままの僕は、たやすく父に抱き伏せられ、食い散らかされる獲物同然だった。

 混沌とした眠りの底から這い出した時、そこがまだ東の領域にある父の寝室であることを知り、僕は途方にくれた。

 これまでの僕は自室でしか抱かれたことがなく、ことが終わった後に部屋に戻るなどということをしたことがなかったからだ。

 どうやって部屋に戻ればいいのか。

 愚かなことに、僕はただそれだけに悩んだ。

 起き上がり数歩を進むのさえ困難な自分のありさまに泣きそうになりながら、ベッドを降りた僕はそれでもガウンをしっかりと羽織った。紐を結ぶのに手間取り、結局は固結びになってしまった後になって、ガウンだけで部屋に戻る自分を想像して青くならざるを得なかった。

 服を−−−。

 せめて昨夜の服なりと着ていればと、視線を彷徨わせたものの、見つからない。

 それは、誰か使用人が服を持って行ったということで、その誰かは僕が父と何をしているのかを知っているということになる。

 ふらふらと、数歩進んだ僕は、寝室と隣との間のドアにもたれるようにしてうずくまったのだった。

 おそらく貧血だったのだろうけれど、くらくらと視界が揺れるその奇妙な感覚に襲われていたぼくは、父の嘲笑を隠していない声を耳にしたのだった。

 父以外の誰かが隣にいる。

 そうして、その誰かは、ハロルドや父の執事のうちの誰かではない。

 カーテンのかかったままの窓から外を見ることはできなかったが、ベッドサイドの時計を目を眇めて見れば、まだ夜が明けて間もない時間であるらしかった。ならばどれほども眠ってはいない。父に引きずり込まれたのは、昨夜遅くだった。突然部屋に訪れた父の手にある深紅のリボンを見て、僕がどれほどの絶望に落とし込まれたことか。あれから、信じられないくらい執拗な行為を受け入れさせられ、挙句、気絶したままだったのだろうか。他に記憶はない。

 ぼんやりと床に腰を落とした僕の耳に、誰かと父のやりとりが聞こえてくる。

 父が相手をしている声の主は、かなり常識はずれの時間にここを訪ねてきたことになる。



「だから、うちの息子を」

「何度説明すれば理解できるのでしょうね。あなたと我が家はもはや無関係なのですよ。先代の温情でアルカーデンの土地の一部と子爵位とを与えられていますが、それを条件に縁切りおよびアルカーディの名を利用しないことを約束させられたと書類が残っていると、先ほど説明したばかりなのですが」

 呆れを隠しもしない。

「けれど!」

「けれどもなにもない! なぜ、我が家にはアークレーヌという後継ぎがいるというのに、あなたのところの息子を跡取りになどという愚かしいことを主張できる!」

 打って変わった父の荒い口調に、全身が震えた。

「学校すらまともに通えなかったようなアークレーヌでは公爵家の当主など勤まりませんよ! それよりうち家の息子を跡取りにして、うちの娘とアークレーヌを娶せて子爵家を」

「あの賭け事好きの浪費家を後継ぎにどころか、あの尻軽をアークレーヌに押し付けようと?」

 あなたの頭は大丈夫なのですか?

 呆れ果てた声に、

「娘は尻軽などではないわ!」

 甲高い叫び声は、どこか力がない。

「尻軽でなければ、男好きとでも? 何回婚約破棄を繰り返しているか、その理由さえ、私の耳に届いているのですよ。尻軽や男好きどころかもっと悪い噂で。しかも他の令嬢の婚約者を横取りすることを飽きもせずに繰り返すと。ハロルド!」

「こちらに」

「読み上げて聞かせようか」

 悪意さえ隠さないその声音に、

「なら、後生だから、せめて助けてちょうだい!」

「なにが、”なら”なのかわかりませんね。なぜ、助けなければ?」

「叔母の頼みが聞けないというのですか」

 ため息が聞こえたような気がする。

「何度言えば理解できるというのか。そちらとこちらの縁は切られているとなぜ理解しようとしないのでしょうね。縁が切られているということは、私とあなたも、叔母と甥の関係ではないということだと」

「そんな。いいえ。たとえ縁は切られても、我が家だとて公爵領の一部を預かる身。公爵家の次代を心配してどこが悪いのです。だいたいあの脆弱極まりないアークレーヌが公爵家当主など、すぐに傾くに決まってますよ」

「当主が脆弱ならば、きちんとした補助役をつけさせればすむことでしょう。そのための後進の育成も我が家の家令にはすでにはじめています。そうすれば当主がたとえ凡愚であろうと大丈夫ですからね」

 僕の背中が、震える。

 ああ、やはり−−−と。

 父にとって、僕は、頼りない存在でしかないのだと。

 凡愚でしかないのだと。

 抱え込んだ膝頭に片方の頬を当てて、僕は目を瞑った。

 なぜ、こんなところで、行儀の悪い盗み聞きなどをする羽目に陥っているのだろう−−−と。

「なにが大丈夫です! あんな気色の悪い子っ」

と、悪意の滴る女性の声が聞こえたと思えば、何かやわらかなものが打たれる音と、女性の悲鳴とが聞こえた。

「あなた、女性に手を挙げるなど!」

「ああ。失礼。けれど息子を侮辱されて怒らないわけがないでしょう」

「あなただとて、私の子供たちを」

 震える声に、

「あなたの子供たちの場合はきちんと裏付け調査をした上での事実ですよ。あなたの息子は賭け事好きの派手好きであちらこちらに借金を作っていますし、決闘騒ぎさえも一度や二度ではないようです。娘の場合は、先ほども説明しましたよねぇ。侮辱には当たりません。しかし、あなたの言葉は、ただ単に、アークレーヌを見た目だけで判断した侮辱にすぎません。ええ。私の最愛の息子、ひいては未来の公爵に対する侮辱以外の何物でもない! 公爵家の子息を見た目で罵っておいて借金の肩代わりなど! しませんよ。するわけがないでしょう。子爵家の残りの土地を売り払って払えば済むことです。それくらいの土地ならまだ残っているはずですよ」

「待って。待って頂戴。さっきの言葉は謝るから。だからっ」

「ハロルド、子爵夫人はおかえりだ案内を」

「子爵夫人。ハーマンがご案内いたします。お帰りはこちらでございます」

 丁寧なハロルドの口調に、

「覚えておきなさい、ウィロウ! いずれ、絶対に後悔するに違いありませんよっ」

 捨て台詞とともに、女性のものとは思えない荒い足音が遠ざかって行く。

 足音が聞こえなくなると、深いため息が聞こえてきた。

 父のものと思えないほどのものだった。

「こちらをどうぞ」

「バートか。ありがとう」

 父の従者の声がした。

「子爵夫人にも困ったものだ」

「子爵家の土地は既に半分ほど担保に取られておりますが」

 ハロルドの声が静かに事実を告げる。

「残りの土地の半分で子息の借金は払えましょうが、そうなりますと子爵家を今まで通りに維持して行くことはできなくなると思われます」

「あの土地自体はさして重要な土地ではないが、アルカーデンの中ほどに位置する土地が他家の飛び地になるやもしれず、唐突にアルカーデンとは関係のない土地があることになるやもしれず、どちらにせよしのびないか」

「押さえておくように手配しておきましょう」

「名を伏せてな」

 あとは、子爵家がどう出るかだろう。

 正確な面積は知らないが、子爵家を名乗る一族の領地の四分の一なら親子四人に数名の使用人ていどなら、充分な生活はできるはず。それを、彼らが受け入れられるかどうかという問題だが、それは、父には関係のないことだった。

 そんなことをとりとめもなく考えていた僕の耳に、複数の足音が聞こえてきた。

 聞いていたことを知られる。

 それどころか、父以外の誰かに、見られてしまう。

 必死に立ち上がろうともがいた僕が一歩を踏み出したその時、タイミング悪くドアが開いた。

「っ」

 ドアが背中に当たり、せっかく立ち上がったというのに、その場に、あえなく頽れる。そんな情けない自分に、頭の中が真っ白になった。

「何をやっている」

「御曹司」

 父とハロルドの声が背中にこぼれ落ちる。

 回り込んできたバートに抱え起こされるようにして、立ち上がる。

「聞いていたのか」

 父の言葉に、思い出す。

 脆弱で凡愚な息子である自分を。

 差し出された父の手を避けたのは、そのせいだったろう。

 意識しての行動ではなかった。

 その時の僕の頭の中にあったのは、自分の情けなさだけで。

 こんな僕など−−−という、自棄であったろう。

「なにを拗ねている」

 けれど、父にはそんな僕の行為が、ただ拗ねているものと映るのか。

 首を横に振る。

「しばらく休んでから部屋に戻るといい。そのままでは歩くのもままなるまい」

 ハロルドも、バートさえもがいるこの場所で。

 血の気が引いた。

 知っているのだと。

 このふたりは当然のごとく知っているのだと。

 この、本来であれば唾棄するべき、関係を。

 それは、火事場の馬鹿力(アドレナリンラッシュ)というものだったのだろう。

 貧血に襲われた上にもとより足取りすらままならない状況だというのに、僕はその場を駆け出したのだ。

「アークレーヌ」

「御曹司」

 三人の声を背中に僕は父の寝室を駆け抜け、東の領域の廊下に飛び出した。

 もはや、己の格好など頭にはなかったのだ。

 父の執務室につながる寝室は、東の領域の二階奥にある。

 全領域が交差する大廊下に出るまでには、父の後妻の部屋があるということなど、この時の僕は知らなかった。

 そう。彼女の部屋が荒らされ、とりあえずの処置ということで部屋をこちらに移動しているという情報など、僕は知らなかったのだ。







 *****








本題にたどり着かない。5回目
 いつもご来訪&拍手ありがとうございます。

 ということで、67kb費やしてもまだたどり着きませんxx

 怠い。

 何もする気が起きなかった。

 自室の居間から窓の外を眺め見る。

 小糠雨に濡れる庭には、咲き初めようとする花々でうっすらと色づいていた。



 昨日のことだ。

 ふと思い出す。

 この城を守るようなガーゴイルの雨樋をスケッチしていた。

 ファサードのガーゴイルたちは特に大きめに造られているため、細部までスケッチするには最適だった。だから、思い立ったその足で、建物正面まで来ていた。いつもは北の領域の庭から外に出ることが多い僕にしてみれば、それは珍しいことだった。

 この城が建造された中世の頃のデザインのどこか滑稽な表情の魔物たちが天を見上げて大きな口を開けている。羽のあるものもいれば、尻尾のあるものも。ツノがあるものも。どれもないものもどれもあるものもいる。

 初めて見るものは驚くかもしれないが、見慣れて仕舞えばどうということもない。もちろんのこと、言うまでもなく、ただの、雨樋にすぎないのだ。

 天を見上げて口を大きく開いたさまは、まるで己の状況を嘆くかのようで。

 天から落ちて魔物へと変わった自分を呪うかのようで。

 まるで自分のようだと、思ったのだ。

 気づいて、苦く嘲笑う。

 どこの悲劇のヒロインだ−−−と。

 滑稽な。

 ほんとうに滑稽だった。

 逃げようとすれば、逃げられるのに。

 逃げないのは、己に自信がないからだ。

 この、安楽な生活を手放したくないためだ。

 ぐるぐると自嘲が頭の中を埋めてゆく。

 己の情けなさに捉われて、鉛筆を動かす手が止まった。

 ガーゴイルたちのように、空を見上げる。

 晴れ渡った空が、どこまでもつづく。

 下界で足掻くのをやめた愚鈍な人間のことなど我知らぬとばかりに、天上の輝かしさを映してどこまでも美しい青が広がる。

 あまりのまばゆさに地上へと視線を戻し振り返れば、遠くどこまでもつづく丘陵地帯の紫が見えた。

 荒野にはびこるヒースの花群れ。

 どこかうっすらと黒みを帯びたように見える、紫の荒野。

 惹かれるようにして、歩き出す。

 スケッチブックと鉛筆が地面に転がる。

「御曹司。どちらへ行かれます」

 いつものように控えていたヴァレットのうろたえたような声が聞こえたような気がした。けれど、それに返事を返すこともせず、僕は歩を進めた。

 だけど、どれほども進めなかった。

「御曹司!」

 ヴァレットの慌てた声とほぼ同時に、甲高く小さな悲鳴が襲いかかる。

 背後からのいきなりの衝撃に、バランスを崩した僕はたたらを踏んだ。

「ご、ごめんなさいっ」

「いや………」

 差し出した右手を、

「いやっ!」

 勢いよく叩かれた。

「御曹司っ!」

「ご、めんなさい」

 天上の空のような青が僕を見上げていた。

「かまうな」

 その瞳の中に見えるおびえの色に、戸惑った。

 なぜ?

「義母上?」

「アークレーヌさまっ」

 悲鳴のような声だった。

「近づかないでっ」

 どうしてこんなに怯えられなければならない?

 僕が、いったい、何をしたというのだ。

 これで、彼女と顔を合わせたのは、何回目だろう? ほとんど言葉すら交わしたことがないというのに。

「ケイティさまっ」

 遅れて駆け寄ってきた見知らぬ女性が、彼女の肩を庇うように抱きしめた。

「大丈夫ですか? おからだは? お腹はっ」

「なんてことをするんですかっ! ケイティさまのお腹には赤ん坊がいらっしゃるんですよっ」

 睨みつけてくる灰色の瞳が僕を糾弾してくる。

 誰だろう−−−と思うよりも先に見知らぬ彼女のそのことばに、心臓を思い切り握りつぶされるような衝撃が襲い掛かった。

 ぐらり−−−と、視界が揺らいだ。

 鼓動の動きが、血管の収縮が、速度を増してゆく。

 まだ何かを叫んでいる見知らぬ彼女のことばを把握することは、僕にはできなかった。

 僕にできることは、背後から僕を支えてくれたヴァレットに体重を預けることだけだったのだ。







 *****







 ウィロウさまはあの日、来てくださらなかった。

 知らせはハロルドさんから受けたはずなのに。

 どうしてなのだろう。

 この頃のウィロウさまは、とてもそっけない。

 朝食時も、晩餐の時も、アフタヌーンティーの時さえも、お顔を見ることができるのは稀になっていた。

 お忙しいのだろうか?

 領地経営は、きっとわたしなどが想像できないくらいに大変なお仕事なのだろう。わたしは詳しくは知らないけれど、ウィロウさまはそれ以外にも他にお仕事をなさっているらしい。

 南の領域から東の領域の二階に移された部屋で赤ん坊の靴下を編みながら、わたしは溜息を吐いていた。

「どうなさいました?」

「いいえ。なんでもないのよ」

 普通に微笑むことができているだろうか。口角がひきつるような気がしてならない。

「前の奥さまがお亡くなりになられたのが三年前の今頃なのだそうですよ」

 何気ないように言うルイゼの事情通さに、目を見開く。

「前の奥さま………」

 すっかり忘れていた。

 わたしは後妻なのだ。

 そう。

 アークレーヌさまのお母さま、ウィロウさまの先の奥方さま。

 離婚などという外分の悪いことを貴族がするはずもない。せいぜいが、別居といったところだろう。だから、後妻を迎える貴族の大多数は、相手を亡くしている場合が多い。

 当然、ウィロウさまの前妻も、亡くなられている。

 これまで考えたこともなかった自分が、どれだけウィロウさまとの結婚に浮かれていたのかを物語っていた。

 どうして亡くなられたのか。

 さすがにルイゼもそこまでは知らなかった。

 どんな方だったのだろう。

 とても今更の疑問だった。

 もしかして、ウィロウさまは今も、前の奥さまを愛してらっしゃるのだろうか。

 そうかもしれない。

 だから、あんな事件が起きたというのに、ハロルドさんに任せっきりにされるのだ。

 たった一言でいい。

 やさしいことばをもらうことができれば、この不安は、消すことができる。

 そう。

 きっと。

 わたしは編みかけの靴下をテーブルの上にそっと置いた。

「ハロルドさん」

 家令の仕事部屋の扉をノックした。

「奥さま、何事でしょうか」

と、ウィロウさまと歳も変わらないだろうハロルドさんが机から顔を上げてわたしを見ていた。

「ハロルドとお呼びください」

 とってつけたように言うハロルドに、

「前の奥さまの肖像画とかありますか? あるのなら見たいのですけど」

 なるたけ冷静に言ったわたしのことばに、ほんの少しハロルドのメガネの奥の目が大きくなったような錯覚があった。

「ございますよ。こちらへどうぞ」

 やりかけの書類をまとめ終わったハロルドが、ソファに座っていたわたしを先導してくれた。





 採光に気を使ったその部屋は西の領域のグランドフロアにある絵画専用の部屋で、壁にはおびただしい数の肖像画や家族の肖像画がかけられていた。

 奥の端にあるのが、初代アルカーデン公爵のものだという。

 ずらりと下がって、目の前にあるのが、ウィロウさまの幼い頃と若かりし頃の肖像画とご両親と共に描かれた肖像だった。

 とても凛々しくお美しい。

 この方が、わたしの旦那さまなのだ。

 そうして、その隣にある家族の肖像画が、ウィロウさまのご家族の肖像。

 椅子の背後に立つ十代後半の青年貴族と、椅子に座る初々しい美貌のレディ。

「この方が………」

 わたしは惚けたようにその女性を見ていた。

 それは、とても美しい女性の肖像だった。

 透けるような白い顔を彩っているのはマホガニー色の艶めく髪。額に嵌ったティアラには真珠の飾りが品よく配置されている。薄い貝殻のような耳。小さめの通った鼻の下に薄幸そうな小さなくちびる。綺麗に弧を描いた細い眉。アーモンドのような双眸。深紅のレースのリボンが巻きつく細い首。くっきりと浮き上がる鎖骨から下を美しく包み込むのは、繊細なレースをふんだんに使ったドレスである。女性的なラインを描く方から腕。手袋に包まれた腕の先では労働とは無縁の細い指が扇を持っている。

「レイヌ・アルカーディさまでございます」

「とてもお美しいお方でしたのね」

 ころがり出たのは、力のない言葉だった。

 なよやかな、たおやかな、わたしとは正反対の貴族的な容姿。

 見せつけられた。

 決して、かなわない。

 そんな気がした。

 どんなに気をつけても日に焼けるのを避けるのが困難な故郷の気候。

 ここに来て少しは白くなったろうけれど、それでもまだそばかすの散る顔はわたしにとってのコンプレックスだった。

 指を見る。

 女性にしては、関節の節が目立つ少し不恰好な指。移動には絶対に馬が必要な環境で、御者の真似事は必須だった。乗馬は趣味などではなく、生活と切り離すことができないもので。それに、金鉱掘りや砂金取り、鉱山仕事に従事する荒くれの多い土地柄の上に、ヘビなどの危険な生き物のいる土地柄である。女性だとて護身用のピストルは必須だった。

 上流階級と呼ばれる生活ではあったけれど、家事も一通りはできる。山火事の炊き出しに参加したこともある。

 上流階級と呼ばれる層の質があちらとでは違うのだ。

 優雅にお茶を飲み、することといえばお喋りと刺繍など。

 もちろん、社交シーズンの忙しさは昨年少しだけ体験してはみたけれど。

 子供がお腹にできたことで、しばらくは首都に出向くことはできなくなった。おそらく、今年の参加は無理だろう。少し残念だけれど、社交界の本格的な洗礼を受けなければならないことを鑑みれば、猶予ができたことは幸運なことのように思えた。

 そう。

 必ず、レイヌさまと比べられる。

 それは逆らいようのない事実だった。

「奥さま?」

 込み上げてくる悲しみがハロルドの前で形になる前に、わたしは急いで踵を返したのだ。








 いつもご来訪ありがとうございます。

 4回目。です。
 めざせ、オーソドックス! です。







 あれが、何を意味していたのか。

 悪夢の只中にあって、僕はようやく理解した。

 あれは。

 あれこそが、僕の本当の母親だったのだ。

 夢の中で、父は、彼女をこそ”レイヌ”と呼んだではないか。

 では。

 あの優しい白い手の主は、父が”レイラ”と読んだ彼女は、僕の本当の母親ではなかったのだ。

 ゆらゆらと揺れた、青黒い顔。

 あの顔が、幼い頃の僕を苦しめた。

 夢に出てきて、僕を睨み付けるのだ。

 そんな僕に、”レイラ”が、呪(まじな)いをかけた。

 彼女の首にかけられていた銀のクルスが、ゆらゆらと揺れて、幼い頃の悪夢(リアル)を心の底へと押しやったのだ。







 ギィギィと耳障りな音に誘われるように、目を見開いた。

 暗い。

 ああ、何時だろう。

 時計のないこの部屋ではわからない。

 喉が渇いた。

 寝室に戻らないと。

 起きあがって、身震いする。

 寒かったのだ。

 ぐらりとめまいのするような感覚に襲われて、しばらくその体勢から動けなかった。

 悪夢のせいだろう。

 肩で息をするようにして、めまいをやりすごす。

 その間にも、ギィギィと癇に障る音がする。

 ギィギィと−−−まるで僕の脳からすべてを取り込もうとするかのように、耳の奥へと入り込んでくる。

 気持ちが悪い。

 立ち上がるのは億劫でたまらなかったが、このままここにいては駄目だとなにかが僕を急かしてくる。

 つるりとながれ落ちる生汗の感触にからだを震わせながら、ようようのことで立ちあがった僕は、息を呑んだ。



 まだ、悪夢の中にるのだろうか?



 ぼんやりした意識のどこかで、猫が鳴いた。



 ギギィと、より大きな音がして。

 黒く太い紐からぶら下がった女が、僕を見てくちびるに弧を描いて見せた。



「おかぁさま」

 声に出しただろうか。

 僕の記憶は、そこで途切れた。







 *****







「どうして?」

 目を疑った。



 南の領域に新たに設けた、やがて生まれてくるこどものための部屋だった。

 わたしの部屋の続き部屋を、ウィロウさまにお願いしてこどものために設え直したのだ。

『あなたとこどもの領域だから、好きにして構わない。なにか必要なものがあれば遠慮なくハロルドに言うといい』

 どこか物憂げなようすでウィロウさまはそうおっしゃってくださった。

 まだ男の子か女の子かもわからないこどものために、やわらかなクリーム色の壁紙を選んだ。温かな春の日差しめい淡い黄色のカーテンも選んだ。少し濃い黄色の糸で細かな花や鳥や蝶の刺繍をしてある可愛らしくて手の込んだものだ。絨毯は毛足の長い濃い目のシナモン色の地色に白い花模様にした。家具は、赤ん坊にはまだ必要ではないだろうから、その代わりにたくさんのクッションを準備した。これで怪我もしにくくなるだろう。この部屋で這い這いをするウィロウさまとわたしのこどもの姿を思い描いて、わたしは胸の奥が暖かくなるのを感じた。

 その昔流行った宝飾品ほども値段がしたというレースみたいな薄いレースの天蓋付きのベビーベッドも取り寄せた。とても細かなバラと天使をモチーフにしたリネンの白が、艶出しで光るクルミ材のベビーベッドにとてもよく映えた。これは、必要がなくなるまではわたしのベッドの脇に置くことになるだろう。寝心地がいいように、やわらかなコットンの寝具を厳選した。

 準備をしている間はとても楽しくて心がうきうきと弾んだけれど、ほんの少しだけ小さな魚の骨のような不満があった。

 どうして、ウィロウさまは一緒に選んでくださらないのだろう。

 ふたりのこどものものをふたりで選ぶのは、とても大切で楽しいことのはずなのに。

 首都までは遠すぎて、カタログを複数取り寄せた。

 それを一緒に見るのは、ウィロウさまではなく、ルイゼなのだ。

 もちろん彼女に不満があるわけではないけれど、ウィロウさまと一緒に見て、こどものことやその他他愛のないおしゃべりをしたいという思いがあるのが事実だった。

 たとえばこれと思うものがあって、ウィロウさまにご相談したい、お見せしたい、感想を聞きたいと思っても、ハロルド止まりで終わるのだ。

 こどもの産着に関しても、なにもかも。

「ルイゼ。ウィロウさまはこどもには関心がないのかしら」

 そう言ってみた。

 もちろん、ルイゼは未婚だから、こういう相談はお門違いなのだろうけど、訊ねずにはいられなかったのだ。

「ケイティさま。ご安心ください。以前母が姉を諭していたのを小耳に挟んだことがあるのですけれど、男親というものは、赤ん坊をその目にするまでは自分の子という認識を持てないものだそうですわ」

 思いもよらない返答に、わたしは目を大きく開いただろう。

「そういうものなの?」

「だそうですよ。なんでも、女性は自分の内にこどもを実感できますけど、男親は目で見て触るまではやっぱり、こう、自覚しにくいのですって」

 ですからね。

 こどものことは、女性同士の方が忌憚なくお話できていいですよ。

「そうなの?」

「はい」

 にっこりと笑うルイゼに、

「じゃあ、この布とこの布のどちらの産着がいいかしら」

 カタログについていた小さな布の切れ端を二枚差し出したのだ。



 そういて、いくばくかの不満はあったものの、着々とこどもを迎える準備が整って行った。

 そうして、今日。

「どうして?」

 まだ目立つことのないお腹を撫でながら小部屋の扉を開けたわたしは、そんなうめきとも知れない声をあげていた。

 悲鳴なんででなかった。

 足から力が抜けて行くのがわかった。

 ドアの端っこを手で擦るように、わたしはその場に蹲った。

 顔を覆う。

 だって。

 なぜなら。

「誰が………」

 生まれてくる子のために誂えた部屋の中が、これ以上ないというほどに荒らされていたからだ。

 壁紙もカーテンもクッションさえもがズタズタだった。

 クッションの詰め物があちこちに撒き散らされ、絨毯にはインクが染み込んでいる。

 いたずらなんかじゃない。

 唯一裂かれていなかった一番心地良さそうな大きいクションに突き立てられた裁ちばさみが、それを示唆しているような気がした。

 あまりにも明確すぎる害意。

 それを感じた。

 誰かが、この子の誕生を喜んでいない。

「………アークレーヌさま?」

 不意に脳裏をよぎったのは、あの白い容姿だった。

 ウィロウさまに嫁いで二月近く、会話という会話もない、義理の息子。

 顔すら数えるほどしか見たことのない、三つ年下の、アークレーヌ・アルカーディ。

 彼なら?

 首を横に振る。

 わたしにこどもができたとしても、彼が次期公爵であるという事実は変わらない。

 ”御曹司”と呼ばれるのは、彼だけなのだ。

 それに、彼がここにどうやって忍び込むというのだ。

 ここは、わたしがメインに使っている部屋の奥の端なのだから。

 わたしや召使の目を盗んでここにくるのは、難しいのに違いない。

 けれど。

 なら。

 いったい誰が?

「きゃあっ」

 つん裂くような悲鳴にわたしの思考は断ち切られた。

 いつの間にかルイゼがわたしの近くで、悲鳴をあげていた。

「奥さま。これは?」

「ひどい」

「なんてこと」

 たちまち召使たちが駆けつけてくる。

 最後にウィロウさまとハロルドとが駆けつけてくると、その只中で、ルイゼはくたくたと気絶したのだった。







 *****







「危のうございます」

 ヴァレットが差し出してくる手を思わず払いのけた。

「すまない」

 気まずいままに謝罪が口をつく。

 本来なら使用人に対して口にすることではないのだが、最近の僕は、いつにも増しておかしいのだ。

 自覚はあった。

「差し出がましいことをいたしました」

 先導でソファに腰を下ろした。

 僕のからだが、僕のものであって僕のものではない。そんな、変な感触に捉われてどれくらいになるだろう。

 足にまとわりついてくる猫を膝に抱き上げる。

 あの日。

 どうしようもないほど己の情けなさに震えたあの日。

 実の母親の記憶を取り戻したあの日。

 育ての母をそうと認識したあの日。

 目が覚めると父に抱きしめられていた、あの朝。

 あれからだろうか。

 いつも以上にぼんやりしている。

 今カップを持っている手は確かに僕のものだという感覚はある。しかし、手から伝わるそのすべらかな感触が、何か薄い膜を一枚隔てたもののように感じられるのだ。

 そう。

 全てが全てにおいて、そんな、一枚の膜ごしに見て、聞いて、しゃべっている、感じている、そういう不快感を伴っていた。

 怠い。

 何もする気が起きなかった。

 
ドロドロの片鱗
 いつもご来訪&拍手ありがとうございます。

 書きかけアップです。
 タイトル通り、ドロドロの片鱗がそれとなく出てまいりました。







 ***** 







 日差しの差し込む南の領域のテラスで、わたしたちは午後のお茶を楽しんでいた。

 コンパニオンであるルイゼがテーブルの反対側に座っている。わたしよりも少し年上の、可愛らしい女性だった。

 嫁いでから半月が過ぎようとしていた。わたしの毎日は、ウィロウさまを中心にして回っていた。朝起きてから寝るまで。寝てからも、かもしれない。毎日、スケジュール通りの行動をとられるウィロウさまなので、それは決して難しいことではなかった。それは、時折、イレギュラーなことも起こりはするけれど、基本、決まった時間に決まったことをして過ごされるウィロウさまだった。それは、以前も今もこれからも、変わることはないのだと思われた。ウィロウさまにとってはそこに、おそらくは、わたしとの生活が加わっただけなのだろう。朝食の時、アフタヌーンティーの時、晩餐の時、わたしがウィロウさまのお顔を見ることができるのは、早朝と夜遅くを除くとそれくらいだったけれど。それに、それにこれまで、最初の夜を除いて、わたしはほぼ毎夜、ウィロウさまと夜を共に過ごしていた。

「ウィロウさまは今日は遅いのね」

 いつもなら顔を覗きに来てくださる頃合いなのに。

 暗にそうほのめかせば、

「お寂しいのですか?」

 ルイゼが小首を傾げる。

 微笑ましいと言いたげな彩りがルイゼの小さめなくちびるをかすめた。

「そういうわけじゃないけど………」

 ケーキスタンドの上のフェアリーケーキをひとつ取り上げる。イチゴジャムの入った、バタフライケーキだった。

 お行儀が悪いけれど、紙をはがして、そのまま頬張る。そんなわたしを、ルイゼが目を丸くしてみていた。

「ウィロウさまには内緒、ね」

 ルイゼは皿に取り分けて、フォークで四分の一に切って口に運ぶ。ただでさえ小さなカップケーキが名前の通り、まるで妖精が食べるケーキのように見えた。

「旦那さまは、御子息さまのお部屋にいらっしゃるのでは?」

「どうして?」

 ふと思い出したというように、ルイゼが口にした。

「たしか、今朝から体調を崩されていらっしゃられるとか聞き及んでおりますよ」

 白−−−が脳裏をよぎった。

 義理の息子になったアークレーヌさまのあの独特な容姿を思い出す。まだ未完成の初々しさを持つ、線の細い少年。長い前髪が表情を判りづらく見せていて、かろうじてあの印象的な赤いくちびるが頑なな心情を湛えているように見えた。

 アルカーディに嫁いで半月、”御子息さま”、”御曹司”と呼ばれるアークレーヌさまとお話ししたのは最初の夜のほんのすこしだけだった。それ以来、顔をあわせることもなく過ごしてきた。館が広いこともあって不思議なことではないのだろうけど、ルイゼが言うには貴族というのはこういうものだそうだけれど、故意に避けられてるのじゃないかと勘ぐってしまう。

 あの少年が、体調を崩している。

「大丈夫なの?」

 最初の夜も、体調が悪いと晩餐の席を早々に立っていた。あの時の、本当にお辛そうだった青白い頬を思い出す。

「お小さい頃からおからだがお弱いと聞いておりますし。あと、お見舞いの必要はございませんと伺っております」

 そういえば、からだが弱いと聞いたような。

「誰から?」

「ハロルドさんからですわ」

 それにしても、

「十六の男の子をそこまで心配する?」

 少し、ほんの少し、これはやきもちなのかも知れなかった。けれど、義父は、兄たちが幼い時に体調を崩したくらいではさほど心配をしたようすを見せたことはなかったのだ。

「………跡取りですもの。ご心配でしょう」

 そっと、わたしを気遣うふうを見せながら、ルイゼが小さくささやいた。

「………」

 跡取り。

 考えたことはなかったけれど、そうなのだ。

 彼が、次のアルカーデン公爵さまなのだ。

 わたしにこどもができたとしても、この家を継ぐことはできない。

 それが少しだけ、本当にちょっとだけ、気になった。

 紅茶に手を伸ばした。

 冷めて渋みの際立つ味は、どこかわたしの感情に似ている、そんな他愛のないことを考えた。



 その日の夜からしばらく、ウィロウさまと夜を過ごすことはなかった。



 そうしてウィロウさまに嫁いで一月が経とうというころになって、わたしは、わたしの妊娠を知ったのだった。







 *****







「大丈夫でございますか」

 従うヴァレットが口にする耳に馴染んでしまったことばを素通りさせながら、僕は館に戻った。

 −−−大丈夫だと言っては嘘になる。

 −−−大丈夫じゃないと言って、どうなるというのか。

 僕はどうせ一生ここから出ることはないだろう。

 戦う前から負けている負け犬なのだという自覚は痛いくらいにある。

 父に心底から逆らうことができずにいる自分を、僕は知っている。いつしか苦痛の中から肉の悦びを拾い上げてしまうようになったこの身の浅ましさを自覚せずにはいられなかった。

 狂ってしまった父。

 その狂気が、母の死ゆえだと。

 その悲しみを分かち合う親子が、肉欲をも分かち合うその狂ったありさまに、絶望を覚えながら逃れることさえもしないでいるのだ。

 泣きわめき拒絶を口にしながら、一歩を踏み出さない。

 逃げない−−−と。

 そんな僕を知っているからこそ、父は、僕を自由にさせているのだ。

 今更、僕が貴族以外の暮らしができるわけもない。

 それくらい、僕だとてわかっている。

 貴族としての諸々を全て剥ぎ取ってしまった僕は、ただの能無しにすぎないのだ。

 絵はあくまで趣味にすぎない。

 もはや満足に弾くことのできないピアノだとて、以前ですら趣味の範囲でなら褒められるていどの腕だったろう。

 頭もさして良くはない。

 身体能力など、推して知るべしでしかない。

 こんな僕が家を出て、何ができるというのか。

 以前ほど恐怖心を覚えなくなったとはいえ、未だ時折覚えるひとに対する恐怖を抱えたままで。

 これでは、貴族としてさえ生きて行くことはできないだろう。

 こんな僕のどこが”大丈夫”だというのか。

 もはや、”大丈夫”ということばを口にすることすら億劫になっていた。

「おかえりなさいませ」

 ハロルドのことばに、

「しばらく休む。誰も通すな」

 どうせ父には反故にされるとわかっている命令をして自室に戻った。

 むしり取るようにスカーフを抜き取り、着衣を全て脱ぎ捨てる。寮生活を送った経験から服の脱ぎ着ていどなら人手は必要なかった。

 そのままベッドに入り、布団を頭からかぶった。

 まだ風が冷たかったせいだ。

 全身の震えをそう言い訳する。

 己の無能さに叫びだしたくなったわけでは、決してない。

 己の無能さに、泣きたくなったわけではない。

 感情の澱が心の底にどろどろといやらしい渦を巻く。

 それに震えながら眠った僕は、悪夢を見た。







「近寄らないでっ!」

 頬で爆ぜた熱に僕はびっくりして、泣こうとした。

 けれど、そんなこと意味はなかった。

「お前などっ! お前などいらないっ!」

 僕の頬を打った畳まれた扇が、僕の頭と言わず首と言わず背中と言わず、ありとあらゆる箇所を打ち据えたからだ。

 痛くて、熱くて、悲しくて、寂しくて、ただ床にうずくまっていた。その脇腹さえ、先の尖った靴で蹴られて、僕はひっくり返ったカエルのように天井を向いて転がった。その腹の上に、細いヒールが押し当てられる。

 ヒッヒッと、声にならない引きつった鳴き声を無様にこぼしながら、僕は涙に霞んだ視界に映るそのひとを見上げていた。

 そのひとが誰か、僕は知っていた。

「おかぁさま」

 声にして呼べば、止めてくれるのではないかと思った。

 けれど、

「ヒッ!」

 伸ばした手でつやつやしたドレスの裾を握りしめたけれど、

「さわらないでっ」

 足は外されたけれど、そのひとも僕に背を向けて何処かに行ってしまった。

 僕の手の中に、ドレスの裾に縫い付けられていた同色のレースの切れ端だけが残っていた。

 しばらく、僕はそのままの体勢で引きつった泣き声をあげていた。

 やがて、ドアが開き、軽い足音が響いた。

「ああ。アークレーヌ」

 先ほどどこかに行ってしまったおかあさまが戻ってきて僕を抱きしめてくれた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたは悪くないの。少しも。決して。愛しているわ」

 抱きしめて、頬ずりをして、涙を拭いてくれた。

「おかぁさま」

「ええ。ええ。お母様ですよ。アークレーヌ。わたくしの可愛い子」

 頭を撫でて、

「さあ、お着替えをしましょうね。その前に、傷の手当てをしてしまわなければ。痛かったわね。ごめんなさい。辛かったわね」

 ぽろぽろとおかあさまがながす涙が、僕の頬を濡らした。







手直ししてみたが(タイトル未定)
 いつもご来訪&拍手ありがとうございます。

 この間からちまちまこちらにアップしてるのを手直しして追加したので、全部アップ。
 なんだけど〜。
 微妙といえば、微妙な気がするというか、長い。一応38kb。テキスト形式で。原稿用紙で40枚くらい? だろうか。
 ま、いいか。

***** 以下。






 その女性を見た瞬間、頭の中で何かが壊れた。

 そんな鋭い音を聞いたような気がした。

 とてもかわいらしい雰囲気の女性だった。ふんわりとした軽やかなウェーブの髪が小作りな顔を彩る。その栗色の色彩が、日の光を浴びて、きらめいていた。頬をうっすらと染めやわらかな微笑みをたたえて、上天気な空の色の瞳を輝かせていた。外からではいくら上を見ようと僕を見ることはできないが、僕からは、彼女のようすをつぶさに観察することができた。

 そんな彼女を迎えるために、”彼”が歩を進めた。

 こちらから見えることはない”彼”の秀麗なまでに整った顔にどんな表情がたたえられているのか。どうしようもなく気になってならなかった。

 そんな自分が嫌でしかたなかったが。

 重厚な内装のせいもあり照明が灯っていてさえ薄暗い室内からでは、外の明るさはまるで天上の世界のように思えた。

 ずらりと並んだおびただしい使用人達の間を歩きながら、女性が”彼”にエスコートされて入ってくる。

 それを、主階段の踊り場の手すりにもたれて見下ろしていた。

 やがて、何段か降りた自分に気づいただろう”彼”に促され、

「ああ! あなたが、アークレーヌさまね」

 満面の笑みで見上げてくる女性に、背中がそそけ立った。

 嫌悪からではない。

 恐怖からだった。

 彼女の背後に立つ”彼”の昏い眼差しもまた、自分を見上げている。

「アークレーヌ、挨拶を」

 ゆったりとした響きの良い声に突き動かされるように、

「はじめまして、義母上」

 口を開いた。

 差し出された手の甲を無視し、頭を軽く下げる。

 そうして、僕は自分の領域に戻った。

 いいや。

 逃げ込んだのだ。

 古い歴史を誇るアルカーデン公爵家の荘園館(マナハウス)は、たくさんのガーゴイル型の雨樋に守られたように見える四方に放射状に広がる造りの城である。口を大きく開き空を睨みつけるたくさんのガーゴイル達。それは、まるで魔王の城ででもあるかのように、この館を訪れるもの達に印象付けるものだった。

 僕の領域は、この広大なマナハウスの北の尖塔を持つ区画である。

 たくさんのタペストリや絨毯、陶磁器、彫刻、鎧兜に剣や槍、絵画。古めかしい時代の遺物がずらりと飾られた廊下や階段は手入れが行き届いていてさえ、どこか埃っぽく感じられる。

 五階の奥が、僕が唯一力を抜くことができる部屋だった。

 荒い息をこらえることもせず扉を開け、勢いを殺すことなくベッドにそのまま突っ伏す。

 丸くなっていた猫が、顔を上げて迷惑そうに小さく鳴いた。

「悪い」

 顔を起こしその黒い小さな塊の顎の下を指で軽く掻いてやれば、その金の目を細めてゴロゴロと喉鳴りをこぼす。

 他の部屋と比していささか手狭な八角形の部屋は、いくつもある尖塔の中でも小さな尖塔のすぐ下の階にあたるためである。

 高い位置にある鋭角的なドーム状にくりぬかれた窓に嵌められたステンドグラス越しの青や赤の光が、ベッド以外なにもないこの部屋を彩る。

 建てられた当初であれば天上をイメージした晴れ晴れとした色彩であったろうそれも、何百年という風雨にさらされて、褪色しどこか黒ずんだ色調に見える。

 態勢を変え、胎児のように丸くなる。

 壁に付けて据えてあるベッドは、幼い頃から僕の唯一の逃げ場所だった。

 ザリザリと音立てて僕の額を一心に舐めてくるこの黒い猫も、その頃からここにいた。

 何歳になるのか、僕よりも年上であるのは、おそらく確かなことだろう。

 ぼんやりと、先ほどの自分の行いを思い起こす。

 大人気ない態度だったと、顔が赤くなる心地だった。

 来年が来れば十七になるというのに、なぜあんな態度を取ってしまったのか。

「頭が痛い………」

 脈動と同じリズムを刻む痛みが、次第に無視できない大きさへと変化してゆくのに、目をきつくつむり、堪える。

 吐き気がする。

 ちらちらと脳裏をよぎるのは、あの晴れ晴れとした空の青にも似た瞳の色だった。

 僕よりも幾つか年上だろうか。

 頬を染めた、初々しい花嫁。

 新大陸から来た富豪の令嬢だったと記憶している。

 ”彼”−−−僕の父の後妻となるべくやってきた、女性。

 名は………。

「何といったか」

 つい昨夜、父に聞いた名を、思い出すことができなかった。

 ありふれた名前だったような気がする。

 まぁいい。

 義理の母を名前で呼ぶこともない。

 僕はぼんやりと天井の梁を見上げていた。







 食堂や居間、応接室、大小の広間や客間などが備わる、中央の塔の領域に僕はいた。

 長いテーブルの一角についていた。

 カトラリーがかすかな音を立てる。

 いつもより豪華な晩餐のメニューはやはり父の新たな妻のためなのだろう。ここに着いた時点で、彼女は父の正式な妻となっているはずだった。

 牛の頬肉の赤ワイン煮込みをナイフとフォークで切り分けていた手を、止める。

 原因は、義理の母となる女性の軽やかなさえずりだった。

 彼女のことばに、父が短く答える。その繰り返しが、空虚さを際立たせているかのように感じた。

 頭痛は治まっていた。

 軽い吐き気はあったが、自律神経が不調なのはいつものことだ。

 このせいではないが、僕はまともに学校生活を送ることができなかった。今は、ここで静養という名目で時間を潰しているだけの人間にすぎない。

 情けない。

「アークレーヌさま。ご気分がすぐれませんの?」

 女性の愛らしい声。

 気遣わしげなそれに、僕は顔を上げた。

 かすかに眉根の寄せられた顔がそこにあった。

「だいじょうぶです」

 応えながら、父の射るような視線を片方の頬に感じていた。

 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、メインディッシュを切り分ける途中だったカトラリーを動かす。

 湯気の散ったそれに、自分がかなり長い間ぼんやりとしていたことを思い知る。

 小さく切ったそれを一口。

 散ってなお鼻に抜けるふくよかな匂いを歯に感じる肉の感触を、舌に感じる旨味を味わう余裕はなかった。飲み込み、次に人参と玉ねぎを食べる。パンをちぎり、頬張る。ワインの代わりに運ばせたミネラルウォーターを一口飲むと、食欲は失せていた。

 ともあれ、これでサリチル酸(柳から分離。アスピリンの前身。胃腸障害が出やすいらしい)を飲むことができる。



 晩餐をどうにかやり過ごし、自分の領分に戻ろうと席を立とうとした耳に、

「後で話がある」

 父の声が聞こえてきた。

 全身が震えそうになるのをかろうじて堪える。

 ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく笑みをたたえて、

「わかりました」

 答えるのが精一杯だった。



「ご入浴の準備は整えてございます」

 家令が僕の部屋で待ち構えていた。

 三階にある僕の部屋だった。

 そういえば今日の給仕は執事だったと思い出す。

「そんなこと、僕の執事か近侍(ヴァレット)の誰かに任せておけばいいだろう」

 家令(ハウス・スチュワード)の仕事ではない。

「ご主人様のご命令です」

「そうか」

 ジャケットをタイを、家令が脱がせてくる。

 身を任せながら、溜息が出そうになるのをかろうじて堪えていた。

 溜息をひとつでも吐けば、堰が切れてしまうだろう。そうなれば最後、泣き喚いてしまいそうだったからだ。



 なぜ。



 入浴後にバスローブをまとっただけで暖炉の前のソファに座った僕の背後に立つ家令が髪を拭ってくる。

 青ざめた自分の顔が暖炉の上の鏡の奥から見返してくる。

 血の気のない紙のような顔。それを彩るのは老人めいて艶のない白糸のような色のリボンを解かれて流れ落ちる長い髪。

 切りたくないと伸ばしっぱなしの長い前髪の奥に隠れた覇気のない虚ろな目はアルカーディ一族の特徴でもある黒と見まがうような濃紺ではなく、やけに赤味の目立つ褐色で、見るたびにゾッとする。

 高くもなく低くもない鼻。これだけがやけに目立つ血を啜った後のような色をしたくちびるは、薄く頑固そうに引き結ばれている。

 その実、少しも意志が強くはないというのに。

 ただ、いつも、叫び出さないようにと必死に食いしばっているのにすぎない。

 叫び出したい。

 泣きわめいて、何もかもをめちゃくちゃに打ち壊してしまいたかった。

 できもしないくせに。

 それなのに。

「ご主人様からはこちらをと」

 梳(くしけず)られた髪の毛を束ねるために取り出された深紅のリボンを見た途端、心臓が痛いくらいに縮んだような錯覚に襲われる。

「御曹司?」

 少しばかりうろたえたような家令の語調に、口角が皮肉に持ち上がった気がした。

 僕の意識は朦朧となってゆく。

 くらりと目まいがする。

 いつものとは違う深紅のリボンは、僕の心を縛る。

 それは呪いだった。

 亡き母が望み、父が実行する、呪いだった。

 両親の確固たる意志の前では、僕はただの贄でしかなかった。







 ***** 







 アルカーデン公爵家のマナハウスに着いたのは、植民地を発って二月が過ぎようとするまだ寒さの残る春先のことだった。

 わたし、ケイティ・マクブライトがウィロウ・アルカーディさまの後妻になることが決まって半年になろうとしていた。

 宝石の鉱山を多数持つ大富豪マクブライト家の娘とはいえ末子であるわたしが、まさか旧大陸の公爵、金銭的に困窮しているわけでもない、そんな相手の妻になることができるなどと、考えたことはなかった。

 十九になろうという私が後妻とはいえ、正妻なのだ。

 マクブライトの娘ではあれ父親と血の繋がってはいない後妻の連れ子であるわたしには、信じられないほどの幸運だった。

 実際、年の近い姉にはかなり妬まれた。

 去年、本場の社交界を経験しておくようにと云われ旧大陸に旅行に出かけた際、招待された夜会で偶然出会った魅力的な男性。それが、アルカーデン公爵ウィロウ・アルカーディさまだった。

 古くは王家の血を引く、まぎれもない青い血を連綿と今に伝える公爵。

 お歳はわたしよりも二十近くも上だけれど、どこか物憂げな雰囲気をたたえた青白く高貴なお顔に、はしたないけれど一目で憧れた。

 綺麗に整えられた艶めく黒髪が一筋その秀麗な額に落ちかかる。そのさまさえもが匂い立つようで、親しくなった令嬢たちと同じくわたしの視線も、彼から離れることはなかった。その物思わしげな夜の空のような濃紺の眼差しに映されてみたいなどと、夢物語を思い描かずにはいられなかった。

 物知りな令嬢が、あれがアルカーデン公爵であると得意げに説明してくれるまで、夢物語は続いた。

 公爵さまと聞いて、砕け散ったけれど。

 ただの富裕層の娘と、高貴な血を受け継ぐ公爵さまとでは、逆立ちしても、ロマンスなど生まれるはずがない。

 夢物語は夢物語なのだ。



 それが婚約などとなったのは、何度かの偶然の巡り合わせのおかげだった。



 植民地に戻った後に、なんと、公爵さまから突然の打診が父のもとに届けられたのだそうで、聞かされたわたしはあまりのことに気を失ってしまったほどだった。

 思慮深げで穏やかそうな、そんなウィロウさまの元に嫁ぐ日を、わたしはゆびおり数えて待ちわびる日々を楽しんだ。



 そうして、もうじき、それが現実となるのだ。

 一月半にもわたる船旅を無事に終え、港に迎えに来ていた馬車に乗り半月。

 屋敷に着いた時点で、わたしはウィロウさまの妻となる。

 披露宴も式もないことが残念で仕方なかったけれど、後妻なのだから仕方ないのかもしれない。シーズンと呼ばれる社交期がくれば王都の夜会で紹介されることになるだろう。

 馬車が荘園館(マナハウス)の門扉をくぐると、そこに広がるのは鬱蒼として薄暗い森だった。

 どこまでも続くと思えた馬車道の果てに、アルカーディ家のマナハウスが現れたのを見た瞬間、わたしは冷水を浴びせかけられたような心地を味わった。

「ミスルトゥ館と申しますよ」

 話し相手として共に旅をしてきたコンパニオンがそっと教えてくれた。

 けれど、その威容は、決して館などではない。

 それは、城だった。

 それも、異形の。

 空にそびえる灰色の城には、壁一面に口を大きく開いて天を呪うかのようなガーゴイルの群れが取り付いていたのだ。

 古めかしい飴色に黒い錬鉄の鋲や横木の渡った両開きの木の扉が内側から開かれる。軋む音がしないのが不思議だった。扉の奥に現れた闇を見て、わたしは帰りたいととっさに思った。

 あれほど嫁ぐ日を心待ちにしていたというのに。

 お会いできる日を指折り数えていたというのに。

 ウィロウさまは迎えに出てきてくださらない。

 公爵家の遠い血筋に当たるという港からここまでの旅程に付き添ってくれたシャペロンにどうぞと手で促されて、馬車を降りたわたしはひとりでマナハウスの扉に向かわなければならなかった。

 開かれた扉をくぐると、ずらりと並ぶお仕着せの使用人たち。百人以上いるのではないだろうか。

「おかえりなさいませ、奥様」

 思いもよらないことばで声さえも揃えて歓迎され、奥から現れたウィロウさまに、ようやくわたしの心細さは押しやられた。

「レディ・アルカーディ」

 穏やかな声で、いささか他人行儀に呼ばれて、少しがっかりしたけれど。

 けれど、ここはわたしがこれまで暮らしてきた植民地ではないのだと、気を取り直す。
 
 ここは因習深い、旧大陸なのだから。

 手を取られて、甲にくちづけられる。

 それだけで、陶然となった。

「今日からここがあなたの家になる。ゆっくりとでいいので馴染んでいってほしい」

 そう言いながら、わたしの肩に手を回した。その瞬間にほのかに立ちのぼったウッディな香水の匂いに、ああ、ウィロウさまのところに嫁いだのだわと、感動に心臓が震えた。

「こちらへ」

 照明を灯してなおも薄暗いホールを主階段へと促された。

 そうして、わたしは、その少年に気づいたのだ。

 少年というには少し大人びて見えたが、今年二十歳になるわたしよりは、年下に見受けられた。

 階段の踊り場に立つそのひとの印象は、白だった。

 引き結ばれたくちびるの朱はけざやかに目を惹いたけれど、それでも、白だった。

 立ち止まったわたしの視線の先を確認したウィロウさまが、

「………アークレーヌ。息子だ」

と、教えてくださった。

 息子がいるということは知っていた。

 けれど、その相手がわたしと幾ばくも歳が変わらないということを、わたしは愚かにも深く考えてはいなかった。

 それでも。

 彼は、わたしの義理とはいえ息子になるのだ。

「ああ。あなたが」

「アークレーヌ。挨拶を」

 階段を降りてきた少年、アークレーヌに手を差し出す。

 しかし彼は、

「はじめまして。義母上」

 わたしの手をとることもなく、そういうと頭を下げて、引き返していったのだ。

 あまりといえば、あまりの態度に、わたしはあっけにとられていたのだろう。

「しかたのない。照れているのだろう」

 ウィロウさまの言葉に我に返ったわたしは、

「これからあなたが生活をする領域に案内しよう。あなたは南の塔のある区域で暮らすことになる。ハロルド」

「はい。ご主人様」

「彼はこの館の家令だ。名をハロルド。ハロルド、レディを部屋へ案内してくれ」

「では、晩餐までからだをやすめてくれ」

 わたしは物足りなさを感じながらも、ウィロウさまの指示に従った。







 ***** 







「レィヌ」

 熱をはらんだ声が、耳を犯してくる。

 レィヌと呼ばれることで、己が誰の代わりを果たしているのかを自覚させられた。

 耳腔をなぶられ、耳朶を食まれ、背筋に戦慄が走る。

 刹那冷えた汗に寒いと思った。しかし、すぐさま消え去る。

 目の端に深紅のリボンが見えた。

 解けたそれが呪縛は解けたと、問わず語りに伝えてくる。

 しかし、それがどうだというのだろう。

 この身はすでに相手の腕の中なのだ。

 この身はすでに熱に侵されている。

 深く密着したからだが、己の欲が目覚めていることを相手に伝える。

 喉の奥で小さく笑われて、全身が羞恥で焼けつくような熱を感じた。

 それだけで。

 たったそれだけのことで、疾うに慣らされきっているからだは容易いほどに。

 からだはこれから起きるだろうことに期待を隠さない。

 隠すことができない。

 その羞恥。

 その屈辱。

 その背徳感。

 ふるふると小刻みに震える全身に、嫌悪が湧き上がる。

 呪いの小道具が解けた今、全ては唾棄したいものでしかなかったからだ。

 目をきつくつむり、眉根を寄せる。

 くちびるをかみしめた途端、

「傷がつく」

 軽く、戒めるかのように頬を張られた。

 痛くはないが、衝撃に我に返った。

 そのせいで、己の有様をより生々しく思い知らされる。

 何をしているのだと。

 まざまざと、理解してしまう。

 己を見下ろしてくる端正な顔が、恐ろしくてならなかった。

「レィヌ」

 甘くとろけるような囁きに、その深い色のまなざしに、狂気を感じて、絶望を覚える。

「どうしてっ」

 熱を煽ろうと弱い箇所をまさぐってくる手に、悲鳴のような声が出た。

「なにがだ」

「………………………義母上がっ」

 そんなことを問いたいのではなかったが、己の真に問い詰めたい疑問に対する答えはわかりきっていた。返されてくる答えは、いつも決まっているのだから。

 追い詰められた脳が、問いをどうにか形にするのに、少し、かなり、時間が必要だったけれど。

「ああ。あれは、うるさいものどもを黙らせるために必要だったのだ」

 面倒臭い。

 呟く声に苛立ちが潜み、手の動きがやわらかなものから激しいものへと変わる。

「柵(しがらみ)は少なければ少ないほうがいい。だからこその選択だ」

 後添いをとうるさい声を黙らせるには、新たな妻を迎える必要があったのだろう。しかし、新たな妻には新たな親族がついてくる。貴族の出であれば旧弊な諸々が”彼”を煩わせるだけでしかなく。ならばと遠隔の植民地の富豪の娘、しかも、血の繋がらない後妻の連れ子を選んだのだと、淡々と告げてくる。

 しかし、その内心は苛立ちが募っているのだろう。

「お前以外を抱く気はないというのに。アークレーヌ」

 獰猛なうなり声のような言葉に、前身が恐怖にすくみあがった。

 まさぐってくる手は、激しさを増すいっぽうだった。

 自由になっていた両手に気づいて、怠いそれでできるだけ声を潜めるべく口を覆う。

 くちびるを噛んでしまえばまた頬を張られるだろう。痛みはなくても、性感を昂められた今そんなことをされては、たまらない。

 なのに。

「声を抑えるな」

 無情な声に、首を左右に振った。

 髪がシーツにあたり、いつの間にかながれていた涙が、シーツを濡らす。

 嫌だというのに。

 嬌声よりも拒絶の声をこそ噛んでいる事実を、おそらく”彼”は知っている。

 ほどけたリボンが、この夜にかけられた呪いが解けたことを現しているのだから。

「おまえの、真の声を聞きたい」

 無理やり外された手がシーツに縫いとめられる。

 おそらくは執拗な蹂躙を受けただろうそこは”彼”を拒絶することはできず、当てられた切っ先に僕の意思を無視した喜びをあらわにする。

 そうなると、出るのは、ただ、

「いやだっ」

 堪えきることができない拒絶だけだった。

「アークレーヌ」

 目を細めた”彼”、父の表情が、遠い東洋の不気味な面めいて僕を見下ろしていた。







 ***** 







「ウィロウさま」

 椅子から立ち上がる。

「おはようケイティ」

 物憂げな表情はそのままに、わたしの手をとり、くちづけてくる。

 声を弾ませてしまって、少し、はしたなかったかしらと反省する。

「おはようございます」

「よく眠れたかな」

 椅子に座り直し、くちをつけていた果実水の入ったグラスを手に取った。

「はい。とても」

 マナハウス内にあるグラスハウスで採れるという南国の果実の果汁はとても甘酸っぱくて美味しかった。

 朝専用のダイニングの昨夜のとは違う小ぶりのテーブルの対面に座ったウィロウさまの前に、朝食が運ばれてくる。

 メニューは黄色の鮮やかなオムレツとマッシュルームとベーコン、サラダ。あとはよく焼かれた薄切りトーストが数枚。ミルクと果実水というたっぷりとしたものだ。

 コーヒーか紅茶を嗜むのは食後らしい。

 朝は慌ただしくコーヒーしか口にしなかった義父や義兄しか知らなかったわたしには、朝食をゆっくりと召し上がられるウィロウさまの姿はとても新鮮なものと映った。

「今日は、この館を案内しよう」

 目が合ったと思えば、しばらく何か考えたあと、ウィロウさまが仰ってくださった。

「嬉しいです」

 ゆっくりと、ウィロウさまは歩いてくださる。

 そんなウィロウさまにわたしは遅れないようについて行く。

 どうして手をつないでくださらないのだろうと疑問に思いはしたものの、家の中だからかもしれない。

 昨日は何かと慌ただしくて、南の塔の領域と呼ばれているらしい公爵夫人のエリアも自室以外は見ることはなかったのだ。なんとはなく夫婦の寝室は隣り合ってるというイメージがあったので、館ひとつぶんはゆうにありそうな部分が全部自分だけのものだという説明に、びっくりせざるを得なかった。上から下まで、南の部分の端から端まで、全部自分の好きに使っていいというのだから。ちなみに、受けた説明では、ウィロウさまのプライベートは東側の領域全て。アークレーヌさまの領域は北側全てなのだそうだ。中央から西側は、パブリックスペースになるらしい。

「じゃ、では、もし子どもが生まれたりしたら、どこになるのでしょう」

 何気ない疑問だった。

 少し恥ずかしかったけれど、結婚したのだから、いずれ子どもができることもあるだろうと。

 そんなわたしの言葉に、ウィロウさまの足がぴたりと止まった。

 見下ろしてくる濃紺の瞳に、背筋が粟立つような心地を覚えた。

 すぐさまに消えた、恐怖にも似た何かを、わたしは錯覚だと打ち消す。

 クスリと、口角に笑いをたたえ、

「もし、あなたに子ができたなら、あなたの領域で育てましょう」

 あなたにとってはその方が望ましいでしょう?

 そうおっしゃってくださった。

「ええ! はい。もちろんです」

 その優しいトーンの声に、わたしは先ほどの恐ろしさを忘れてしまったのだった。





 そうして、その日一日は、わたしにとってとても幸せな一日になった。

 そう。

 夜もウィロウさまと共に過ごすことができて、わたしは天にも昇る心地だったのだ。







 ***** 







 脛を何かが擦る感触で我に返った。

 見下ろせば、黒い和毛(にこげ)に包まれた見慣れた姿が尾をピンと伸ばして僕にからだをこすりつけていた。

「おまえ………」

 名前のない黒い猫を脇に手を差し入れて抱き上げる。別段嫌がるでもなくぶら下がるように力を抜いてされるがままの猫を膝に抱えた。

 毛氈に腰を下ろす。

 イーゼルに立てかけた画布の中では、目の前で威容を誇る緑に染まりつつある大地の只中の環状列石柱(ドルメン)が黒白のコントラストを見せている。それぞれの列柱の隙間に、今も古のドルイドたちの姿を垣間見ることがあるかのような、古い遺跡だった。古く、アルカーディの先祖はドルイドだという伝説もあったが、その真偽を確かめる術はない。しかし、代々のアルカーディの女性たちは、なにかと神秘的な物事に傾倒しがちな面があった。真実、母もまた神秘に惹かれるひとりであった。母の髪を縛っていた赤いリボンの先についた燻し銀のドルイドベルの高く澄んだ音色が、ふと耳の奥に蘇る。

 昨夜の今朝で、倦怠感は抜けないが、部屋にいるのも苦痛だった。

 食欲などもとよりありはしなかった。それでもと、執事の用意したバスケットが毛氈の上に置かれている。バスケットの横にはミルクと果汁まで準備されている。

「ああ。匂いに惹かれたか?」

 バスケットを開けようとすれば、背後で黙したままだったヴァレットが先に動く。

「ミルクを注いでやってくれ」

 ミルクを小さな皿に注いで、猫を近くに下ろしてやる。

「御曹司もなにかお召し上がりになられませんと」

 いらないと言いたかったが、あまりに心配そうな視線に、

「オレンジジュースを」

 肩をすくめた。

 差し出されるグラスを受け取り、口をつける。

 甘酸っぱい果汁が喉の渇きを癒してゆく。渇いていたのだなとそこで初めて自覚した。



 絵を描くことは、学校で覚えた。

 その時間だけが、僕にとっては穏やかなひと時だった。

 まだ健在だった母が僕を手放したがらなくて、学校生活を過ごしたのは中等部の一年からで結局一年に足りないほどだったけれど、思い出したくもない。



 公爵子息ということであからさまないじめなどは受けなかったが、それでも上級生からの何がしかの嫌がらせが毎日のようにあった。

 寮生活という世間から隔絶された毎日にあって、常識というものが少しばかりいびつになっていたのだろうか。

 ささやかな、それでいて執拗な嫌がらせの数々は上級生である第三王子が中心になって行われたものだった。名前は、ウインストンだったろうか? 不敬だろうが、少しあやふやではある。ともあれ、第三王子である上に上級生であったから、逆らうことは難しかった。なにしろ学生である間は身分の上下は関係ないとの建前があっても、上級生の命令は絶対というのが暗黙のルールであるためだ。もちろん、度を過ぎた理不尽な命令であれば拒絶も許されたが、まだ未熟な年齢の集まりであるため、稀に洒落にならない事件となることもあるらしかった。

 幼年から寮生活を送っていれば、慣れることもできたろう。しかし、十三の歳までからだの弱かった母と共に領地で暮らしていた僕にとって、初めての他人ばかりとの生活は苦痛でしかなかったのだ。溶け込むことが難しく、馴染むことが辛かった。

 だから、僕は、周囲から浮いてはいただろう。

 馴染もうと努力はしたのだ。しかし、あまり無理をすると始まる頭痛を堪えることが辛くてならなかった。だから、自覚はなかったものの、いつしか一歩周囲から引いてしまっていたらしい。

 そんな僕の楽しみといえば、初めて覚えた絵画のスケッチと、母に聞かせていたピアノくらいなものだった。

 原因ははっきりとしないが、部屋割りか、寮弟制度か、監督生とのやりとりか。来賓の前でピアノを披露する役目を僕が担うことになったことだったのか。それとも、あの非日常な空間にあって蔓延していた同性同士のやりとりが原因だったのか。

 それらすべてが複雑に絡まりあった末に起きたことなのかもしれない。

 その事件で、僕の左手の力は無くなってしまった。

 ピアノを楽しむことができなくなってしまったのだ。



 寮に備えつけのグランドピアノは年代物だった。滅多に誰かが弾いていることはなかったが皆無というわけでもなく、翌日に迫った発表に少しでも指を慣らせておきたかった僕は監督生に許可を得て独占していた。

 曲目は、「ピアノのための瞑想曲」のつもりだった。百年以上昔の詩人の詩をイメージして作曲されたという、静かな印象の曲である。そのため、来賓たちの好みを考えてもう少し派手なのにすればいいのにと提案をされもしたが、僕はこれを翻すつもりはなかった。



 集中していた僕は、いつしか上級生達に囲まれていたのに気付くのが遅くなった。

 気づかない僕に焦れて、暗譜済みではあったがもしもの予防に立てかけていた楽譜を落とされて、手が止まった。

「熱心だな」

 嘲笑うように言われて、右手の主旋律が小指の動きを違えた。

 ウィンストンとその取り巻きの上級生たちだった。

 その時は、はっきりと覚えているとは言い難かったが記憶にある少年がひとり加わっていた。

「あなたは、たしか………」

 『もう少し派手なのにすればいいのに』と言ってきたのが彼だったような。ネクタイの色を見れば、上級生らしい。憎らしげにこちらを睨めつけてくる茶色の瞳が、可愛らしい顔には不似合いだった。

 もともとこれが仕上げのつもりで弾き終われば部屋に引き上げるつもりだったこともあって、邪魔されたなと、それだけを残念に感じていた。

 だから、どこかまだ完全に音の宇宙からこちら側へと戻りきっていなかったのにちがいない。

 そんな僕が気に入らなかったのだろう。

「やってよ」

 可愛らしい上級生が短く叫んだ。

 ピアノの蓋に手をかけたのを見て、なんとなく嫌な予感に襲われ手を引いていた。

 それが良かったのだ。わずかなタイムラグののちに大きな音を立てて蓋が閉められる。

 顔をしかめた僕が立ち上がるのに先んじて無理やり立ち上がらせ、羽交い締めにしてくる。

「いつも鈍そうにしてるのに、こんな時だけなんで素早いんだよ! 弾けなくなればいいのにっ」

 可愛らしい顔の上級生が僕の近くに盛大にしかめた顔を寄せる。

 いつの間にか手にしていた楽譜をわざとらしく大きな音を立てて破く。

「え?」

 そうなって、初めて、僕は声を出していた。

「いつだって僕が弾いてたんだよっ」

 頬を力任せに叩かれた。

「なぁに、関係ありませんって顔してんだよ」

 ジンジンと熱い痛みを感じながら、それなのにまだ僕はどこか非現実の中にいるような錯覚から抜け出しきるには至っていなかった。

「いっつもお高く止まってんだよなぁ下級生の分際で」

「いっくら公爵令息ったってさぁ」

「そのキレーな顔、泣かせてやりたいんだよなぁ」

 いつの間にか取り出されていたナイフが頬に当たる冷たい感触に、目が見開かれてゆく。

「そうそう。いっつもそうやって感情を出していれば少しは可愛いものを」

 底意地の悪そうな笑いのにじんだ声で、遅まきに湧き上がってきた恐怖を煽ってくる。

「アイスドールってかぁ」

「はなせっ」

 ジャケットの下、下着でもある白いカッターシャツがよく研がれたナイフで切り裂かれる。その手際の良さに、背筋が震えた。

 当時の僕には、何が起きているのかなど、全くわからなかった。

 なぜ、突然服を破かれるのか。皮膚が外気に晒されて、鳥肌が立つ。

 奇妙な空白の時に、加害者達が息を飲み生唾を飲み込む音だけがやけに大きく耳に届いた。

 向けられる視線に込められた熱が怖くて、気持ち悪くてどうしようもなかった。

 居合わせた誰も助けてくれなかった。

 そうだろう。

 相手は第三王子であるウィンストンと、その取り巻きなのだ。

 しかも、彼らは寮の最上級生。

 あの時あの場所に居合わせたものたちで、彼らに立ち向かえるものはいなかったに違いない。

「へぇ………顔だけじゃないんだ」

 ウィンストンが、僕の胸にぺたりと湿った掌をくっつけてくる。

 全身が震える。

 僕の肌理を確かめるように撫でさすりながら少しずつ下がって行く掌が、やがて金属音を立てた。

「やめろっ」

 いつの間に溜まっていたのか、涙が下まぶたからこぼれ落ちる。

 吐き気がこみ上げる。

 ガンガンと脳が直に殴られるように、視界がぶれる。

 なぜこんなことをされるのか、こんなことになんの意味があるのか、当時の僕には本当にわからなかった。

 入浴の手伝いをする執事やヴァレットならともかく、建前上とはいえ同等の立場にある彼らになぜ裸を見られ、触られなければならないのか。

 ズボンを引き抜こうとしてくる手に抗う。足をよじるようにして、力を込める。しかし、相手は複数なのだ。ナイフすら手にするものもいる。どうして敵うだろう。ナイフをズボンの前合わせに沿わせて、

「抵抗するなら、このまま切るぞ」

 そう言われて、恐怖にすくみ上がらずにはいられない。

「力を抜け」

 少し離れて、ウィンストンと可愛らしい顔をした上級生とが僕を見る。

 舐めずるような、獲物をいたぶる悪魔のような、悪辣な表情をして、楽しげに。

 僕は力を抜くことさえできず、首を左右に振る。

 力を抜けばどうなるか。

 ズボンを奪われれば、シャツの上部はすでに切り裂かれてその態をなしてはいない。そんな情けない姿を人前に晒したいわけがない。ナイフの存在をまざまざと感じながら、僕はただ足に力を入れていた。

 誰かから緊急の知らせを受けた監督生が駆けつけて来た時、僕は、動くに動けなかった幾人もの寮生たちの中で、見世物のような哀れな格好を強いられていたのだ。

 その屈辱。

 その恐怖。

 その悔しさ。

 怒り。

 羞恥。

 様々な感情のごった煮の只中にぶち込まれて僕は必死でもがいていた。

 これ以上どんな屈辱があるのか当時の僕は知らなかったが、それでも、何か良からぬことに襲われるということだけはうっすらと予感していたからだ。

 監督生の声が逆に彼らを煽った感があった。



 今も僕の左の手の甲から掌にかけて醜く残る傷跡は、あの折り僕に向けられた害意の最終的な形だった。



「やめないか!」

 短く鋭い声に、学校で一目置かれる監督生を認め、青くなったのは、可愛らしい上級生だった。

「名誉ある×××寮の一員たちが何をしている」

 続けられた声は、一転淡々としていた。

「今すぐ愚行をやめないか」

 溜息をつきながらナイフを取り上げようと近づいてくる。

 それに弾かれて、

「くるなっ」

 叫んだのは、ナイフを手にした者だったのだろう。同時に、ナイフが前合わせから離れる。

「また、君か」

 何度目だ。

「うるさい!」

 振り払うようにナイフを握っている手が動く。

 痛みが、僕の頬に走る。

 かすかな呻きに、少しばかりにじんだ血に、一瞬時が止まったかに思えた。

 しかし。

 野次馬と化したものたちが悲鳴を上げた。

 それが、次の動きを決めた。

 第三王子は、いつの魔にか傍観者の位置に移動している。そうなれば、取り巻きだということを周知されているとはいえ、実行犯は他ならない彼らなのだ。おそらく、第三王子という立場からウィンストンは、見逃されるだろうことが想像に易かった。そうなれば、アルカーディの権力は実行犯よりもはるかに勝る。学校内での戯れごととみなされる程度の虐めならば問題視されなくても、そこに血が流されたという事実が加われば、実行犯たちの家は潰されるかもしれない。彼等の廃嫡という処置で済めば御の字もいいところなのだから。

 そこまでを理解するほどの余裕がなかったのか。



 ふりかぶられたナイフは、僕の心臓を狙っていた。







 目が覚めた時、そこはすでに、学校ではなかった。

 病院でもなく、馴染み深いマナハウスの自室だった。

 薄暗い部屋の中、誰か、ひとのシルエットが際立つ闇となって見えた。

「誰」

 声はしわがれ小さなものだったが、シルエットはそれに弾かれたように動いた。

「父上」

 やさしく額に触れてきたその掌の感触に、泣きたくなった。

「アークレーヌ」

 かすれ気味の穏やかな声が、僕の名を呼ぶ。

「………なにが」

 記憶はおぼろで、ただ疑問ばかりが大きかった。

 抵抗しようとかろうじて拘束を解き突き出した左手を貫いたため、ナイフは心臓まで届かずに済んだのだそうだ。

 けれど、僕の左手は、もう自由にピアノを奏でることができなくなってしまった。

 実行犯たちのその後も、その家がどうなったかも、僕は知らない。第三王子もあの可愛らしい上級生もどうでもいい。

 理由も何もかも、知りたくもなかった。

 声も出せずにただ涙を流す僕に、

「全て忘れてしまうといい」

 父は僕の内心を知っているかのように何度もそう囁いた。

 何度も、何度も、僕が再び眠るまで、父は僕の頭を撫で、囁き続けたのだ。



 父は静かに、ただ穏やかにそこにいた。

 母の死の折りのあの嘆きを、心の奥深くに沈めて。

 向けられる父の視線の意味を、深く考えることなどありはしなかった。

 父は、父であり、それ以外ではなかった。

 それ以外になるはずがない。

 なっていいわけがなないのだから。



 怪我も治り、父の雇った家庭教師(チューター)が僕の勉強を見るようになって、ふと僕は気付いた。

 他人の視線というのが、恐ろしくてならないということに。

 最初は、勉強をしたくないという怠け癖が家庭教師と共にいることを嫌悪させているのだと思っていた。

 しかし。

 やがて、過呼吸の発作となって、それが現れだした。

 家庭教師は僕をいじめはしないのに。

 彼が時々手にする定規の動きに、黒板を指す短い鞭の動きに、心臓が跳ねるような恐怖を覚えるようになった。

 それは日々大きくなっていった。

 見られているだけなのに、からだが震えるようになった。

 相手の、目が怖かった。

 なにを思って見てくるのか、ごく普通のその感覚が、怖くてしかたがなかった。

 けれど。そんなことを知られたくなくて、僕は必死に我慢した。

 それが悪かったのか。

 いつしか、”誰”ということもなく、不特定のその辺にいる”誰か”の視線というだけで、震えるようになっていた。

 自然、部屋に閉じこもるようになった。

 父はそんな僕を諌めることはなかった。

 それをいいことに、ただ漫然と、僕は日々を過ごすようになったのだ。

 時々、部屋にあるピアノに触れて、左手が満足に動かないことを思い知らされた。けれど、生活するだけなら、なんら問題はない。右手で主旋律を弾くくらいならできるのだから。それに合わせて、あらかじめコードの幅と形とに左手を開いて軽く鍵盤に置いて上下させる。手をコードの幅に合わせて変えることには苦痛だが伴ったが、小さな音を奏でるくらいはできた。

 弱々しい音色に自嘲に口角が引きつったが、気を紛らわせるには充分だった。

 不意に、突然、胸に刺さったナイフの鋭さを、心臓には届くことなく済んだそれを幻のような痛みとして思い出して息が止まりそうになることがあったが。

 概ね平凡な日々だった。



 グラスハウスの中は、冬とは思えないくらいの湿度と暖かさに満ちていた。

 弱い日差しが、グラス越しに緑に降り注ぐ。

 ひとのことばを真似ることができる鮮やかな鳥が止まり木でしきりに首を振り立てていた。

 それをスケッチしていた僕は、ふと背後から落ちてきた影に振り返った。

「先生………」

 家庭教師だった。

 かけたメガネを直しながら、僕を見下ろしてくる。

 その視線はなんということもないものだったのに、背筋が不快に震えた。

「アークレーヌさま。今日は調子が良さそうですね」

 空いた手に持っているのは数冊の教本のようだ。

 こうして行き合ったときに僕の調子が良さそうなら、授業が開始される。

 このところグラスハウスがお気に入りになっていた僕を見つけるのは容易かっただろう。

「こちらよろしいですか」

 尋ねてくるのにうなづいて返すと、備え付けられているソファに腰をおろす。

 テーブルの上に教本を広げるのを見て、僕は小さく肩をすくめた。

 集中できたのは三十分ほどだったろうか。

 教本に指を添えての家庭教師の声が、ふいに途切れた。

「先生?」

 眼鏡越しの視線が、教本から逸れて僕の背後に向けられていた。

 それの先に、

「父上?」

 グラスハウスと北の区画とを隔てる扉近くに、父が佇んでいた。

 僕の声に、促されたかのように歩き出す。

 家庭教師が、椅子から立ち上がる。

 僕は惚けたようになって父をただ見ていた。なぜなら、父の雰囲気が、いつもと違って見えたからだ。

 姦しい叫びをあげて、極彩色の鳥が止まり木から飛び立った。

「出て行け」

と。

 いつもの父の穏やかさが消えた口調で、家庭教師に命じる。

 その雰囲気に、ぎこちなく一礼して彼が足早に出て行く。

「父上?」

 不思議にかすれる声で、目の前で僕を見下ろす父に呼びかける。

 高く澄んだ音色が、父の手元から聞こえてきた。

 懐かしい。

 母のリボンの先にあった、ドルイドベルの音色だった。

 目の前に掲げられた赤いリボンの先にで、燻し銀の丸くささやかなベルがぶら下がり揺れている。僕の意識を奪うその高く澄んだ音色が、だんだん大きく膨らんでゆくような錯覚があった。大きく、まるで僕を包み込むかのように。

「手を出しなさい」

 父の声が、なんらかの膜を一枚隔てたような不明瞭なものになる。

 けれど、言葉の意味はわかった。

 まるで操られるかのように、僕は、手を差し出していた。

 かすかな衣擦れの音を立てて、赤いリボンが僕の両手首に絡まる。

 父の手が器用に動き、僕の手を縛める。

 しかし。

 その時の僕は、すでにおかしくなっていたのだろう。

 それを不思議と感じなかった。

 しゃらしゃらと鳴り続けるドルイドベルの音色が、まるで亡くなった母の声のように僕の耳の奥でささやきつづける。



 アークレーヌ、可愛らしいわたくしたちの−−−と。



「アークレーヌ。お前は私たちのものだ」

 直接に僕に囁いてくる父の言葉と重なり合って、ふたりぶんのことばが僕を呪縛してゆく。



 この時、僕には何もまだ分かってはいなかった。

 ふたりによる呪縛の意味が。

 まだ十五に手の届いていなかった僕にとって、外の世界を学び取ることができなかった僕にとって、迫ってくる父の顔を、押し当てられるくちびるの生々しさを、それらの持つ意味は最初わからなかった。それを理解することができたのは、すべてのことが終わってからだった。



「お前は、レイヌが私に残してくれた唯一だ」

と。

「私がレイヌ以外に抱いてもいいのは、レイヌの血を受け継ぐお前だけなのだ」

と。

 狂人のささやきを睦言に、僕の下肢が開かれる。

 父の充溢したものが、僕の下肢を押し開きあらぬ箇所へと分け入ってくる。

 灼熱をはらんだ凶悪なまでの質量に、その場が引き裂かれてゆく。

 からだの奥が割かれてゆく忌まわしい音が、脳までもを犯す。

 その頃になってようやく僕の手首を結びつけていたリボンは解け、同時に、痺れたように何も考えられなくなっていた脳が動きだす。

 そうして、理解する。

 これが、禁忌であるのだと。

 実の父親に、同性である父親に、こうして犯されている己の存在は、決して許されるものではないのだと。

 その事実が、僕に絶叫を上げさせる。

 心を捩らせるようにして振り絞りほとばしり出た叫びが、泣(・)き声が、どれほど大きなものだったか。

 救いを求める声が、どれほどまでに悲痛なものであったのか。

 そんな大声が誰にも聞かれずに済むはずはない。

 けれど、誰も、助けに来ることはなかった。

 やがて悲鳴も叫びも貪られる獲物の喘鳴へと変化を遂げて、父の律動に揺さぶられその刺激に声帯からまろび出るただの嬌声めいたものになりはてる。

 そうして。

 何度目になるのかわからない理性をなくした父の行為の果てに、僕の意識は焼ききれるようにして途切れたのだった。



「アークレーヌ」

 穏やかな父の声が、聞こえた。

 髪の毛を梳いてくる掌の感触が、心地よかった。

 しかし。

 頬に、額に、父のくちびるの熱が触れた瞬間、

「いやだっ!」

 掠れた声で拒絶を叫ぶ。

 思い出したのだ。

 何が起きたのか。

 涙でかすみ、泣き腫れた重い瞼の向こう、木々の隙間から見えるのはグラスハウスの天井以外のなにものでもなく。僕は父に抱き潰されたのと同じ場所で、抱きしめられているのだ。

 汗や精液にまみれたからだは重怠く、ひとの重さと熱量とが、嫌悪ばかりを訴えかけてくる。

 疼痛を覚えるその箇所が、禁忌を犯した証だった。

 男である僕が、血のつながる父に犯された、逃れようのない、罪の証だった。

 どうして−−−と。

 まともな声にならない声で、糾弾するも、

「お前はレイヌが私に遺した唯一のものだ」

と、獣のような色を宿した瞳が見下ろしてくる。

 おやこなのに−−−と。

「それがどうした」

と。

「お前はわたしたちのもの」

と。

 静かに狂ったまなざしが、僕を凝視する。

「私たちの愛の証に他ならない」

と。

 涙が、こみ上げる。
 鼻の奥がきな臭くなり、目頭が絶望の熱を孕んだ。

 溢れ流れ落ちた涙にくちびるを寄せてくる狂った男を、押しのけようとして、叶うことはなかった。





 その時から、僕の髪は色を失い、老人のような白へと変わってしまったのだ。







***** こんな感じですかね。ううむ。なんか、いきなり。あまり必然性がないような? ううむ。ウィロウの感情とかあまり書かないつもりだったので、唐突感が強いかなぁ。やっぱり。

 そういえば、レィヌってフランス語で女王なんですけどねvv ま、まぁ。偶然です。偶然。
っつうことで2回目






 ***** 







 脛を何かが擦る感触で我に返った。

 見下ろせば、黒い和毛に包まれた見慣れた姿が尾をピンと伸ばして僕にからだをこすりつけていた。

「おまえ………」

 名前のない黒い猫を脇に手を差し入れて抱き上げる。別段嫌がるでもなくぶら下がるように力を抜いてされるがままの猫を膝に抱えた。

 毛氈に腰を下ろす。

 イーゼルでは、素描段階の花々が黒白のコントラストを見せている。

 昨夜の今朝で、倦怠感は抜けないが、部屋にいるのも苦痛だった。

 食欲などもとよりありはしなかった。それでもと、執事の用意したバスケットがワゴンの上に置かれている。バスケットの横にはミルクと果汁まで準備されている。

「ああ。匂いに惹かれたか?」

 バスケットを開けようとすれば、背後で黙したままだった執事が先に動く。

「ミルクを注いでやってくれ」

 ミルクを小さな皿に注いで、猫を近くに下ろしてやる。

「若様もなにかお召し上がりになられませんと」

 いらないと言いたかったが、あまりに心配そうな視線に、

「オレンジジュースを」

 肩をすくめた。

 差し出されるグラスを受け取り、口をつける。

 甘酸っぱい果汁が喉の渇きを癒してゆく。渇いていたのだなとそこで初めて自覚した。

 絵を描くことは、学校で覚えた。

 その時間だけが、僕にとっては穏やかなひと時だった。

 まだ健在だった母が僕を手放したがらなくて、学校生活を過ごしたのは中等部の一年からで結局一年間だけだったけれど、思い出したくもない。

 公爵子息ということであからさまないじめなどは受けなかったが、それでも上級生からの何がしかの嫌がらせが毎日のようにあった。

 寮生活という世間から隔絶された毎日にあって、常識というものが少しばかりいびつになっていたのだろうか。

 ささやかな、それでいて執拗な嫌がらせの数々は上級生である同位の公爵家子息が中心になって行われたものだった。名前は、ランドールだったろうか? 少しあやふやではある。ともあれ、同位ではあっても、あちらは名ばかりのと爵位の頭についていても、上級生であったから、逆らうことは難しかった。なにしろ学生である間は身分の上下は関係ないとの建前があっても、上級生の命令は絶対というのが暗黙のルールであったためだ。もちろん、度を過ぎた理不尽な命令であれば拒絶も許されたが、まだ未熟な年齢の集まりであるため、稀に洒落にならない事件となることもあった。

 幼年から寮生活を送っていれば、慣れることもできたろう。しかし、十三の歳までからだの弱かった母と共に領地で暮らしていた僕にとって、初めての他人ばかりとの生活は苦痛でしかなかったのだ。溶け込むことが難しく、馴染むことが辛かった。

 だから、僕は、周囲から浮いてはいただろう。

 そんな僕の楽しみといえば、初めて覚えた絵画のスケッチと、母に聞かせていたピアノくらいなものだった。

 原因ははっきりとしないが、部屋割りか、寮弟制度か、監督生とのやりとりか。来賓の前でピアノを披露する役目を僕が担うことになったことだったのか。それとも、あの非日常な空間にあって蔓延していた同性同士の何がしかのやりとりが原因だったのか。

 それらすべてが複雑に絡まりあった末に起きたことなのかもしれない。

 その事件で、僕の髪は白くなった。

 母譲りの栗色の髪は、老人のような白へと変わってしまったのだ。



 寮に備えつけのグランドピアノは年代物だった。滅多に誰かが弾いていることはなかったが皆無というわけでもなく、翌日に迫った発表に少しでも指を慣らせて起きたかった僕は監督生に許可を得て独占していた。

 曲目は、「ピアノのための瞑想曲」のつもりだった。古の詩人の詩をイメージして作曲されたという、静かな印象の曲である。そのため、もう少し派手なのにすればいいのにと批判されたが、僕はこれを翻すつもりはなかった。

 集中していた僕は、いつしか上級生達に囲まれていたのに気付くのが遅くなった。

 気づかない僕に焦れて、暗譜済みではあったがもしもの予防に立てかけていた楽譜を落とされて、手が止まった。

「熱心だな」

 嘲笑うように言われて、それでも僕はぼんやりとしていたろう。

 ランドールとその取り巻きの上級生たちだった。

 その時は、知らない少年がひとり加わっていた。ネクタイの色を見れば、上級生らしい。憎らしげにこちらを睨めつけてくる茶色の瞳が、可愛らしい顔には不似合いだった。

 もともとこれが終われば部屋に引き上げるかと考えていたこともあって、邪魔されたなと、それだけを残念に感じていた。

 そんな僕が気に入らなかったのだろう。

「やってよ」

 可愛らしい上級生が短く叫んだ。

 無理やり立ち上がらされて、羽交い締めにされた。
「弾けなくなれよ」

 わざとらしく大きな音を立てて楽譜が破かれた。

「え?」

 そうなって、初めて、僕は声を出していた。

「最初は、僕が弾くはずだったんだよっ」

 頬を力任せに叩かれた。

「なぁに、スカした顔してんだよ」

 ジンジンと熱い痛みを感じながら、それでもまだ僕はどこか非現実の中にいるような錯覚から抜け出せなかった。

「いっつもお高く止まってんだよな、下級生の分際で」

「いっくら公爵令息ったってさぁ」

「そのキレーな顔、泣かしてみたいんだよなぁ」

 いつの間にか取り出されていたナイフが頬に当たる冷たい感触に、目が見開かれてゆく。

「そうそう。いっつもそうやって感情を出していれば少しは可愛いものを」

 底意地の悪そうな笑いのにじんだ声で、遅まきに湧き上がってきた恐怖を煽る。

「アイスドールってかぁ」

「はなせっ」

 ナイフで服を切り裂かれた。

 当時の僕には、何が起きているのかなど、全くわからなかった。

 ただ、怖くて、気持ち悪くてどうしようもなかった。

 居合わせた誰も助けてくれなかった。

 そうだろう。

 相手は公爵の息子であるランドールと、その取り巻きなのだ。

 しかも、彼らは寮の最上級生。

 あの時あの場所に居合わせたものたちで、彼らに立ち向かえるものはいなかったに違いない。

 誰かから緊急の知らせを受けた監督生が駆けつけて来た時、僕は、動くに動けなかった幾人もの寮生たちの中で、見世物のようにあられもない格好を強いられていた。

 その屈辱。

 その恐怖。

 その悔しさ。

 怒り。

 羞恥。

 様々な感情のごった煮の只中にぶち込まれて僕は必死でもがいていた。

 これ以上どんな屈辱があるのか、当時の僕は知らなかったが、それでも、何か良からぬことに襲われるということだけはうっすらと予感していたからだ。

 監督生の声が逆に彼らを煽った感があった。



 今も僕の左の手の甲から掌にかけて醜く残る傷跡は、あの折り僕に向けられた害意の最終的な形だった。



「やめなさい!」

 短く鋭い声に、学校で一目置かれる監督生を認め、青くなったのは、可愛らしい上級生だった。

「名誉ある×××寮の一員たちが何をしている」

 続けられた声は、一転淡々としていた。

「今すぐ愚行をやめないか」

 溜息をつきながらナイフを取り上げようと近づいてくる。

 それに弾かれて、

「くるなっ」

 叫んだのは、おそらく、ランドールだったのだろう。

「また、ランドール。君か」

 何度目だ。

「うるさい!」

 振り払うようにナイフを握っていた手が動いた。

 痛みが、僕の頬に走る。

 かすかな呻きに、少しばかりにじんだ血に、一瞬時が止まったかに思えた。

 しかし。

 野次馬とかしたものたちが悲鳴を上げた。

 それが、次のランドールの動きを決めた。

 同位とはいえ、アルカーディの権力は、ランドールの父親のものよりもはるかに勝る。学校内での戯れごととみなされる程度の虐めならば問題視されなくても、そこに血が流されたという事実が加われば、ランドールの家は潰されるかもしれない。彼の廃嫡という処置で済めば御の字もいいところだろう。



 ふりかぶられたナイフは、僕の心臓を狙っていた。







 目が覚めた時、そこはすでに、学校ではなかった。

 病院でもなく、馴染み深いマナハウスの自室だった。

 薄暗い部屋の中、誰か、ひとのシルエットが際立つ闇となって見えた。

「誰」

 声はしわがれ小さなものだったが、シルエットはそれに弾かれたように動いた。

「父上」

 やさしく額に触れてきたその掌の感触に、泣きたくなった。

「アークレーヌ」

 かすれ気味の穏やかな声が、僕の名を呼ぶ。

「………なにが」

 記憶はおぼろで、ただ疑問ばかりが大きかった。

 抵抗しようとかろうじて拘束を解き突き出した左手を貫いたため、ナイフは心臓まで届かずに済んだのだそうだ。

 けれど、僕の左手は、もう自由にピアノを奏でることができなくなってしまった。

 ランドールのその後も、その公爵家がどうなったかも、僕は知らない。

 理由も何もかも、知りたくもなかった。

 声も出せずにただ涙を流す僕に、

「全て忘れてしまうといい」

 父は何度もそう囁いた。

 何度も、何度も、僕が再び眠るまで、父は僕の頭を撫で、囁き続けたのだ。








 ***** 流れが微妙なんですけどねぇ。ランドールの行動がよく理解できんxx あまりヒリヒリした緊迫感を感じない章だな。
ぐわ………
 いつもご来訪ありがとうございます。

 ただいま創作の集中力が切れてここに来たんですけどね。
 なんか、例の短編めちゃくちゃ鬼畜仕様なんですが………どうしましょうか。
 ゴシックロマンス風味にしたからか、なんか取り返しがつかないかもしれん。
 女性にきつい話になりそうだなぁ。まぁBLやらJUNEって案外そういう話多いけど。

 今日中に書き上げられるといいなぁ。無理か。
 妙に文体が、長文っぽくなってきてる。そんな気がする。
 どうしよう。

 ちとお試しで。
 閲覧注意。って、エログロないですからね。一応からみはありますが。うお里の描写力ではねっとり無理なので。

*****







 その女性を見た瞬間、頭の中で何かが壊れた。

 そんな鋭い音を聞いたような気がした。

 とてもかわいらしい雰囲気の女性だった。ふんわりとした軽やかなウェーブの髪が小作りな顔を彩る。その栗色の色彩が、日の光を浴びて、きらめいていた。頬をうっすらと染めやわらかな微笑みをたたえて、上天気な空の色の瞳を輝かせていた。外からではいくら上を見ようと僕を見ることはできないが、僕は、彼女のようすを観察することができた。

 そんな彼女を迎えるために、”彼”が歩を進めた。

 こちらから見えることはない”彼”の秀麗なまでに整った顔にどんな表情がたたえられているのか。どうしようもなく気になってならなかった。

 重厚な内装のせいもあり照明が灯っていてさえ薄暗い室内からでは、外の明るさはまるで天上の世界のように思えた。

 ずらりと並んだおびただしい使用人達の間を歩きながら、女性が”彼”にエスコートされて入ってくる。

 それを、主階段の手すりにもたれて見下ろしていた。

 やがて、何段か降りた自分に気づいただろう”彼”に促され、

「ああ! あなたが、アークレーヌさまね」

 満面の笑みで見上げてくる女性に、背中がそそけ立った。

 嫌悪からではない。

 恐怖からだった。

 彼女の背後に立つ”彼”の昏い眼差しもまた、自分を見上げている。

「アークレーヌ、挨拶を」

 ゆったりとした響きの良い声に突き動かされるように、

「はじめまして、義母上」

 口を開いた。

 差し出された手の甲を無視し、頭を軽く下げる。

 そうして、僕は自分の領域に戻った。

 いいや。

 逃げ込んだのだ。

 古い歴史を誇るアルカーデン公爵家の荘園館(マナハウス)は、たくさんのガーゴイル型の雨樋に守られたように見える四方に放射状に広がる造りの城である。口を大きく開き空を睨みつけるたくさんのガーゴイル達。それは、まるで魔王の城ででもあるかのように、この館を訪れるもの達に印象付けるものだった。

 僕の領域は、この広大なマナハウスの北の尖塔を持つ区画である。

 たくさんのタペストリや絨毯、陶磁器、彫刻、鎧兜に剣や槍、絵画。古めかしい時代の遺物がずらりと飾られた廊下は手入れが行き届いていてさえ、どこか埃っぽく感じられる。

 五階の奥が、僕が唯一力を抜くことができる部屋だった。

 扉を開け、勢いを殺すことなくベッドにそのまま突っ伏す。

 丸くなっていた猫が、顔を上げて迷惑そうに小さく鳴いた。

「悪い」

 顔を起こしその黒い小さな塊の顎の下を指で軽く掻いてやれば、その金の目を細めてゴロゴロと喉鳴りをこぼす。

 他の部屋と比していささか手狭な八角形の部屋は、いくつもある尖塔の中でも小さな尖塔のすぐ下の階にあたるためである。

 高い位置にあるいささか鋭角的なドーム状にくりぬかれた窓に嵌められたステンドグラス越しの青や赤の光が、このベッド以外なにもない部屋を彩る。

 建てられた当初であれば天上をイメージした晴れ晴れとした色彩であったろうそれも、何百年という風雨にさらされて、褪色しどこか黒ずんだ色調に見える。

 態勢を変え、胎児のように丸くなる。

 壁に付けて据えてあるベッドは、幼い頃から僕の唯一の逃げ場所だった。

 ザリザリと音立てて僕の額を一心に舐めてくるこの黒い猫も、その頃からここにいた。

 何歳になるのか、僕よりも年上であるのは、おそらく確かなことだろう。

 ぼんやりと、先ほどの自分の行いを思い起こす。

 大人気ない態度だったと、顔が赤くなる心地だった。

 来年が来れば十八になるというのに、なぜあんな態度を取ってしまったのか。

「頭が痛い………」

 脈動と同じリズムを刻む痛みが、次第に無視できない大きさへと変化してゆくのに、目をきつくつむり、堪える。

 吐き気がする。

 ちらちらと脳裏をよぎるのは、あの晴れ晴れとした空の青にも似た瞳の色だった。

 頬を染めた、初々しい花嫁。

 新大陸から来た富豪の令嬢だったと記憶している。

 ”彼”−−−僕の父の後妻となるべくやってきた、女性。

 名は………。

「何といったか」

 つい昨夜、父に聞いた名を、思い出すことができなかった。

 ありふれた名前だったような気がする。

 まぁいい。

 義理の母を名前で呼ぶこともない。

 僕はぼんやりと天井の梁を見上げていた。







 食堂や居間、応接室、大小の広間や客間などが備わる、中央の塔の領域に僕はいた。

 長いテーブルの一角についていた。

 カトラリーがかすかな音を立てる。

 いつもより豪華な晩餐のメニューはやはり父の新たな妻のためなのだろう。ここに着いた時点で、彼女は父の正式な妻となっているはずだった。

 牛の頬肉の赤ワイン煮込みをナイフとフォークで切り分けていた手を、止める。

 原因は、義理の母となる女性の軽やかなさえずりだった。

 彼女のことばに、父が短く答える。その繰り返しが、空虚さを際立たせているかのように感じた。

 頭痛は治まっていた。

 軽い吐き気はあったが、自律神経が不調なのはいつものことだ。

 このせいでとだけはいえないが、僕はまともに学校を卒業することができなかった。今は、ここで静養という名目で時間を潰しているだけの人間にすぎない。

 情けない。

「アークレーヌさま。ご気分がすぐれませんの?」

 女性の愛らしい声。

 気遣わしげなそれに、僕は顔を上げた。

 かすかに眉根の寄せられた顔がそこにあった。

「だいじょうぶです」

 応えながら、父の射るような視線を片方の頬に感じていた。

 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、切り分ける途中だったカトラリーを動かす。

 湯気の散ったそれに、自分がかなり長い間ぼんやりとしていたことを思い知る。

 小さく切ったそれを一口。

 散ってなお鼻に抜けるふくよかな匂いを歯に感じる肉の感触を、舌に感じる旨味を味わう余裕はなかった。飲み込み、次に人参と玉ねぎを食べる。パンをちぎり、頬張る。ワインの代わりに運ばせたミネラルウォーターを一口飲むと、食欲は失せていた。



 晩餐をどうにかやり過ごし、自分の領分に戻ろうと席を立とうとした耳に、

「後で話がある」

 父の声が聞こえてきた。

 全身が震えそうになるのをかろうじて堪える。

 ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく笑みをたたえて、

「わかりました」

 答えるのが精一杯だった。



「ご入浴の準備は整えております」

 家令が僕の部屋で待ち構えていた。

 三階にある僕の部屋だった。

 そういえば今日の給仕は執事だったと思い出す。

「そんなこと、執事の誰かか従僕に任せておけばいいだろう」

 家令の仕事ではない。

「ご主人様のご命令です」

「そうか」

 ジャケットをタイを、家令が脱がせてくる。

 身を任せながら、溜息が出そうになるのをかろうじて堪えていた。

 溜息をひとつでも吐けば、堰が切れてしまうだろう。そうなれば最後、泣き喚いてしまいそうだったからだ。

 なぜ。

 青ざめた自分の顔が鏡の奥から見返してくる。

 血の気のない紙のような顔。それを彩るのは老人めいて艶のない白糸のような色の長い髪。

 長い前髪の奥に隠れた覇気のない虚ろな目は一族の特徴でもある黒と見まがうような濃紺ではなく、やけに赤味の目立つ褐色で、見るたびにゾッとする。

 高くもなく低くもない鼻。これだけがやけに目立つ血を啜った後のような色をしたくちびるは、薄く頑固そうに引き結ばれている。

 その実、少しも意志が強くはないというのに。

 ただ、いつも、叫び出さないようにと必死に食いしばっているのにすぎない。

 叫び出したい。

 泣きわめいて、何もかもをめちゃくちゃに打ち壊してしまいたかった。

 それなのに。

「ご主人様からはこちらをと」

 梳(くしけず)られた髪の毛を束ねるために取り出された深紅のリボンを見た途端、僕の意識は朦朧となってゆく。

 くらりと目まいがする。

 いつものとは違う深紅のリボンは、僕の心を縛る。

 それは呪いだった。

 亡き母が望み、父が実行する、呪いだった。

 両親の確固たる意志の前では、僕はただの贄でしかなかった。







 ***** 







 アルカーデン公爵家のマナハウスに着いたのは、新大陸を発って二月が過ぎようとする春先のことだった。

 わたし、ケイティ・マクブライトがウィロウ・アルカーディさまの後妻になることが決まって半年になろうとしていた。

 宝石の鉱山を多数持つ大富豪マクブライト家の娘とはいえ末子であるわたしが、まさか旧大陸の公爵、金銭的に困窮しているわけではない、そんな相手の妻になることができるなどと、考えたことはなかった。

 後妻とはいえ、正妻なのだ。

 マクブライトの娘とはいえ血の繋がってはいない後妻の連れ子であるわたしには、信じられないほどの幸運だった。

 実際、年の近い姉にはかなり妬まれた。

 去年、旧大陸に旅行に出かけた際、招待された夜会で偶然出会った魅力的な男性。それが、アルカーデン公爵ウィロウ・アルカーディさまだった。

 古くは王家の血を引く、まぎれもない青い血を連綿と今に伝える公爵。

 お歳はわたしよりも一回りと少し上だけれど、どこか物憂げな雰囲気をたたえた青白い高貴なお顔に、はしたないけれど一目で憧れた。

 綺麗に整えられた艶めく黒髪が一筋その秀麗な額に落ちかかる。そのさまさえもが匂い立つようで、親しくなった令嬢たちと同じくわたしの視線も、彼から離れることはなかった。その物憂げな夜の空のような濃紺の眼差しに映されてみたいなどと、夢物語を思い描かずにはいられなかった。

 物知りな令嬢が、あれがアルカーデン公爵であると得意げに説明してくれるまで、夢物語は続いた。

 公爵さまと聞いて、砕け散ったけれど。

 ただの富裕層の娘と、高貴な血を受け継ぐ公爵さまとでは、逆立ちしても、ロマンスなど生まれるはずがない。

 夢物語は夢物語なのだ。



 それが婚約などとなったのは、何度かの偶然の巡り合わせのおかげだった。



 物憂げで穏やかそうな、そんなウィロウさまの元に嫁ぐ日を、わたしはゆびおり数えて待ちわびる日々を楽しんだ。



 そうして、もうじき、それが現実となるのだ。

 一月半にもわたる船旅を無事に終え、港に迎えに来ていた馬車に乗り半月。

 屋敷に着いた時点で、わたしはウィロウさまの妻となる。

 披露宴も式もないことが残念で仕方なかったけれど、後妻なのだから仕方ないのかもしれない。シーズンと呼ばれる社交期がくれば王都の夜会で紹介されることになるだろう。

 馬車が荘園館(マナハウス)の門扉をくぐると、そこに広がるのは鬱蒼として薄暗い森だった。

 どこまでも続くと思えた馬車道の果てに、アルカーディ家のマナハウスが現れたを見た瞬間、わたしは冷水を浴びせかけられたような心地を味わった。

 館などではない。

 それは、城だった。

 空にそびえる灰色の城には、壁一面に口を大きく開いて天を呪うかのようなガーゴイルの群れが取り付いていたのだ。

 古めかしい飴色に黒い錬鉄の鋲や横木の渡った両開きの木の扉が内側から開かれる。軋む音がしないのが不思議だった。扉の奥に現れた闇を見て、わたしは帰りたいととっさに思った。

 あれほど嫁ぐ日を心待ちにしていたというのに。

 お会いできる日を指折り数えていたというのに。

 ウィロウさまは迎えに出てきてくださらない。

 公爵家の遠い血筋に当たるという港からここまでの旅程に付き添ってくれたコンパニオンにどうぞと手で示されて、馬車を降りたわたしはひとりでマナハウスの扉に向かわなければならなかった。

 開かれた扉をくぐると、ずらりと並ぶお仕着せの使用人たち。百人近くいるのではないだろうか。

「おかえりなさいませ、奥様」

 思いもよらないことばで声さえも揃えて歓迎され、奥から現れたウィロウさまに、ようやくわたしの心細さは押しやられた。

「レディ・アルカーディ」

 穏やかな声で、いささか他人行儀に呼ばれて、少しがっかりしたけれど。

 けれど、ここはわたしがこれまで暮らしてきた植民地ではないのだと、気を取り直す。
 
 ここは因習深い、旧大陸なのだから。

 手を取られて、甲にくちづけられる。

 それだけで、陶然となった。

「今日からここがあなたの家になる。ゆっくりとでいいので馴染んでいってほしい」

 そう言いながら、わたしの肩に手を回した。その瞬間に立ち上ったかすかに冷ややかな植物性の香水の匂いに、ああ、ウィロウさまのところに嫁いだのだわと、感動に心臓が震えた。

「こちらへ」

 照明を灯してなおも薄暗いホールを主階段へと促された。

 そうして、わたしは、その少年に気づいたのだ。

 少年というには少し大人びて見えたが、今年二十歳になったわたしよりは、年下に見受けられた。

 階段の踊り場に立つそのひとの印象は、白だった。

 引き結ばれたくちびるの朱はけざやかに目を惹いたけれど、それでも、白だった。

 立ち止まったわたしの視線の先を確認したウィロウさまが、

「………アークレーヌ。息子だ」

と、教えてくださった。

 息子がいるということは知っていた。

 けれど、その相手がわたしと幾ばくも歳が変わらないということを、わたしは愚かにも深く考えてはいなかった。

 それでも。

 彼は、わたしの義理とはいえ息子になるのだ。

「ああ。あなたがアークレーヌさまね」

「アークレーヌ。挨拶を」

 階段を降りてきた息子、アークレーヌに手を差し出す。

 しかし彼は、

「はじめまして。義母上」

 わたしの手をとることもなく、そういうと頭を下げて、引き返していったのだ。

 あまりといえば、あまりの態度に、わたしはあっけにとられていたのだろう。

「しかたのない。照れているのだろう」

 ウィロウさまの言葉に我に返ったわたしは、

「これからあなたが生活をする領域に案内しよう。あなたは南の塔のある棟で暮らすことになる。ハロルド」

「はい。ご主人様」

「彼はこの館の家令だ。名をハロルド。ハロルド、レディを部屋へ案内してくれ」

「では、晩餐までからだをやすめてくれ」

 わたしは物足りなさを感じながらも、ウィロウさまの指示に従った。







 ***** 







「レィヌ」

 熱をはらんだ声が、耳を犯してくる。

 レィヌと呼ばれることで、己が誰の代わりを果たしているのかを自覚させられた。

 耳をなぶられ、耳朶を食まれ、背筋に戦慄が走る。

 刹那冷えた汗に寒いと思った。しかし、すぐさま消え去る。

 目の端に深紅のリボンが見えた。

 深く密着したからだが、己の欲が目覚めたことを相手に伝える。

 喉の奥で小さく笑われて、全身が羞恥で焼けつくような熱を感じた。

 それだけで。

 たったそれだけのことで、疾うに慣らされたからだは容易いほどに。

 からだはこれから起きるだろうことに期待を隠さない。

 隠すことができない。

 しかし。

 ふるふると小刻みに震える全身に、嫌悪が湧き上がる。

 呪いが解けた今、全ては唾棄したいものでしかなかったからだ。

 目をきつくつむり、眉根を寄せる。

 くちびるをかみしめた途端、

「傷がつく」

 軽く、戒めるかのように頬を張られた。

 痛くはないが、衝撃に我に返った。

 そのせいで、己の有様をより生々しく思い知らされる。

 何をしているのだと。

 まざまざと、理解してしまう。

 己を見下ろしてくる端正な顔が、恐ろしくてならなかった。

「レィヌ」

 甘くとろけるような囁きに、その深い色のまなざしに、狂気を感じて、絶望を覚える。

「どうしてっ」

 熱を煽ろうと弱い箇所をまさぐってくる手に、悲鳴のような声が出た。

「なにがだ」

「………………………義母上がっ」

 そんなことを問いたいのではなかったが、己の真に問い詰めたい疑問に対する答えはわかりきっていた。返されてくる答えは、いつも決まっているのだから。

 追い詰められた脳が、もうひとつの問いをどうにか形にするのに、少し、かなり、時間が必要だったけれど。

「ああ。あれは、うるさいものどもを黙らせるために必要だったのだ」

 面倒臭い。

 呟く声に苛立ちが潜み、手の動きがやわらかなものから激しいものへと変わる。

「柵(しがらみ)は少なければ少ないほうがいい。だからこその選択だ」

 後添いをとうるさい声を黙らせるには、新たな妻を迎える必要があったのだろう。しかし、新たな妻には新たな親族がついてくる。貴族の出であれば旧弊な諸々が”彼”を煩わせるだけでしかなく。ならばと遠隔の植民地の富豪の娘、しかも、血の繋がらない後妻の連れ子を選んだのだと、淡々と告げてくる。

 しかし、その内心は苛立ちが募っているのだろう。

 まさぐる手は、激しさを増してくる。

 自由になっていた両手に気づいて、口を覆う。

 くちびるを噛んでしまえばまた頬を張られるだろう。痛みはなくても、性感を昂められた今そんなことをされては、たまらない。

 なのに。

「声を噛むな」

 無情な声に、首を左右に振った。

 髪がシーツにあたり、いつの間にかながれていた涙が、シーツを濡らす。

 嫌だというのに。

 嬌声よりも拒絶の声をこそ噛んでいる事実を、おそらく”彼”は知っている。

 ほどけたリボンが、この夜にかけられた呪いが解けたことを現しているのだから。

「おまえの、真の声を聞きたい」

 無理やり外された手がシーツに縫いとめられる。

 おそらくは執拗な蹂躙を受けただろうそこは”彼”を拒絶することはできず、当てられた切っ先に僕の意思を無視した喜びをあらわにする。

 そうなると、出るのは、ただ、

「いやだっ」

 拒絶だけだった。

「アークレーヌ」

 目を細めた”彼”、父の表情が、遠い東洋の不気味な面めいて僕を見下ろしていた。







 ***** 







「ウィロウさま」

 椅子から立ち上がる。

「おはようケイティ」

 物憂げな表情はそのままに、わたしの手をとり、くちづけてくる。

 声を弾ませてしまって、少し、はしたなかったかしらと反省する。

「おはようございます」

「よく眠れたかな」

 椅子に座り直し、くちをつけていた果実水の入ったグラスを手に取った。

「はい。とても」

 この敷地で採れるという果実の果汁はとても甘酸っぱくて美味しかった。

 朝専用のダイニングの昨夜のとは違う小ぶりのテーブルの対面に座ったウィロウさまの前に、朝食が運ばれてくる。

 メニューは黄色の鮮やかなオムレツとマッシュルームとベーコン、サラダ。あとはよく焼かれたトーストが数枚。ミルクと果実水というたっぷりとしたものだ。

 朝は慌ただしくコーヒーしか口にしなかった義父や義兄しか知らなかったわたしには、朝食をゆっくりと召し上がられるウィロウさまの姿はとても新鮮なものと映った。

「今日は、この館を案内しよう」

 目が合ったと思えば、しばらく何か考えたあと、ウィロウさまが仰ってくださった。

「嬉しいです」

 ゆっくりと、ウィロウさまは歩いてくださる。

 そんなウィロウさまにわたしは遅れないようについて行く。

 どうして手をつないでくださらないのだろうと疑問に思いはしたものの、家の中だからかもしれない。

 昨日は何かと慌ただしくて、南の塔の領域と呼ばれているらしい公爵夫人のエリアも自室以外は見ることはなかったのだ。なんとはなく夫婦の寝室は隣り合ってるというイメージがあったので、館ひとつぶんはゆうにありそうな部分が全部自分だけのものだという説明に、びっくりせざるを得なかった。上から下まで、南の部分の端から端まで、全部自分の好きに使っていいというのだから。ちなみに、受けた説明では、ウィロウさまのプライベートは東側の領域全て。アークレーヌさまの領域は北側全てなのだそうだ。中央から西側は、パブリックスペースになるらしい。

「じゃ、では、もし子どもが生まれたりしたら、どこになるのでしょう」

 何気ない疑問だった。

 少し恥ずかしかったけれど、結婚したのだから、いずれ子どもができることもあるだろうと。

 そんなわたしの言葉に、ウィロウさまの足がぴたりと止まった。

 見下ろしてくる濃紺の瞳に、背筋が粟立つような心地を覚えた。

 すぐさまに消えた、恐怖にも似た何かを、わたしは錯覚だと打ち消す。

 クスリと、口角に笑いをたたえ、

「もし、あなたに子ができたなら、あなたの領域で育てましょう」

 あなたにとってはその方が望ましいでしょう?

 そうおっしゃってくださった。

「ええ! はい。もちろんです」

 その優しいトーンの声に、わたしは先ほどの恐ろしさを忘れてしまったのだった。





 そうして、その日一日は、わたしにとってとても幸せな一日になった。

 そう。

 夜もウィロウさまと共に過ごすことができて、わたしは天にも昇る心地だったのだ。







 ***** 






***** とりあえずこんな感じ。女性が可哀想かもしれん。もう少し悪役令嬢風味にするべきだったか? 書いたことないんだよね、悪役令嬢。
 下手したらウィロウの年齢が若すぎる気がする。アークレーヌの歳をもう少し下にした方がいいだろうか。
 ウィロウって名前がなぁ………外郎に見えて仕方ないorz
あまりにも貴重な
 いつもご来訪&拍手コメントありがとうございます。レスは後ほど。

 やっとこずっとこ、「あまりにも貴重な」の続きを。って、何にも起きてませんけどね。これはゆっくり行きますよ。うん。しかたないもん。

***** 以下。






「少々手狭になりますが、後しばらくのご辛抱を」

 ビュートに手を振り応え、

「怪我人にこちらを譲る」

 御者台側に背を向ける位置にドミニクが移動する。

「お前の膝を枕に、転がらぬよう見ていろ」

「委細承知いたしました」

 鼻をつく異臭が馬車内にこもる。

「大丈夫でございますか?」

「構わぬさ」

 肩を竦めるドミニクからは先ほどの体調の悪さが形を潜めたように見受けられる。受け答えも、しっかりしているように感じられる。しかし、まだその紫紺の瞳は、茫洋と焦点を結ばない。

「風呂と医者、それに、寝床が必要か」

 ぼんやりと確認するように呟くドミニクを、ビュートは見つめていた。







 グランビル公爵家のタウンハウスは、家格を鑑みれば質素と思われるような白壁の建前である。ドミニク・アシュレイが公爵を継承する寸前に前公爵が祝いだとばかりに新しく建て直した左右に幅のある両翼造りの二階建ての建物がそれである。王宮から離れた場所に建つのは、初代公爵が変わり者であったためである。ここ最近台頭してきている新興の男爵家さえもが王宮に近い位置取りに陣取っていた。しかし、その敷地面積を見れば、タウンハウスと呼ぶには不釣り合いなほど広大だった。流行りの東洋趣味を取り入れたらしい川には中洲まで設けられ、橋や飛び石、果ては小舟で水遊びとしゃれ込むことまで可能だった。あまつさえそこに建つ東屋は古代の神殿をミニチュアにしたものさえも据えられている。もちろんのこと、富裕層の象徴である噴水も数機設けられている。

 馬車は門番が開けた錬鉄の黒い門扉をくぐり抜ける。門扉から一歩中に入れば、そこには一見公園のようにも見える敷地が広がっている。土がむき出しの道を道なりに馬車を数分駆る。道の頭上を夜空よりも黒々と覆うかのように繁る人工林の木立の隙間を夜行性の生き物の目が金や緑に光っては消えてゆく。

 見慣れた景色が、マナハウスの敷地を模したものであることは明白だった。

 馬車寄せ前の噴水を回り込み、琥珀色のガス灯の下に馬車は停車する。

 馬たちの足踏みが数回繰り返され、御者のなだめる声が聞こえる。

 その間に館の扉が家令(スチュワード)の指示によって開かれた。扉の内側は広いホールであり、奥には両翼二階へとつながる主階段が二箇所ある。主人の邪魔にならないようそこを避けるようにして男女の使用人がずらりと立ち並び、主人を待ちわびる。

「足元にお気をつけください」

 石段を登るドミニクに付き従うビュートが注意を促す間にも、主人のために段差を控えめにした石段を主従は登りきる。

「おかえりなさいませ」

 かけられる声はきれいに揃う。その間を家令にシルクハットを渡しながら進むドミニクは、何事かを思い出したように立ち止まった。

「ビュート」

「はい。閣下」

「あれは?」

 物憂げな眼差しが、銀髪の執事(バトラー)の肩のあたりを彷徨う。そこには、汚れたひとの形をしたのものが担がれたままである。

「こちらに」

 肩から腕に移動させながら、ビュートが応える。

「いかがいたしましょう」

 そう答えるビュートに、

「そちらは?」

「ローレンスどの。これは、帰途閣下がお助けになられた者でございます」

「怪我がひどいようですね」

 中年の家令が落ち着いたようすで、執事の腕の中意識のない若者を確認する。

「客間に風呂と、医者を。部屋は客間を使え。バスルームの風呂は僕が使う」

 命じる声に、

「御意のとおり」

 家令と執事とが腰を折る。

 手を二度打ち鳴らす家令に、使用人たちが持ち場へと戻ってゆく。その中の数名に、家令が指示を伝える。客間の準備と風呂の用意、久しく使われていないバスタブの準備の指示だった。そこには、下層階級だろう拾われた若者に客間をあてがうことに対する疑問など微塵も見受けられはしない。

「お医者さまには、私が電話をいたしましょう。叩き起こすことになりましょうが、文句も申されませんでしょう。しかし、足が必要ですね」

 誰を使いにやりましょうか。

「でしたら、今宵の御者にもう一働き願いましょう」

 ローレンスに、ビュートが提案する。

「その前に、客人を寝室へ」

 バスタブを運ぶ使用人のひとりに、ローレンスが声をかけた。

 そんな使用人たちのやり取りを尻目に、ドミニクは、ゆっくりと階段を上っていった。







***** こんな感じでしょうか。いろいろ調べてたら時間かかっちゃって。特に未だわかりかねるスチュワードとバトラーvv シュチュワード>バトラー らしいですけどね。財産管理人と、主人のプライベートな家庭内の事務役。家令のほうは基本、代々お家に仕えてる。執事は、要は私設秘書みたいなもんかな? あとは、お風呂事情にトイレ事情vv いろいろ説あるけど、とりあえずイリギス舞台じゃないので。似非ですから。あくまでも! 主張です。

 今日のダイゴ。
 前も書いたような記憶ありますが。首輪を外しました。うん。で、前は、首輪をつけられるの好きだったんですけど、今回嫌がるようになりまして。首はストレスフリーになってるダイゴです。けど、ドライブにはリードもつけないとダメなので首輪必須ですからね。
 で、そういう時は、なぜかわかるらしく、首輪つけようとしても、嫌がらない! わからんねぇ。ダイゴって!

 この辺でレスです。

trapさま
 こんばんは〜♪
 ありがとうございます。ええ、喉ちょっとまだ重いかな? って感じですが、普通にしゃべれてますvv 歌えるもんだなぁって正直なところですね〜。
 いいですね〜グラナダ版「ホームズ」! ブレッド氏はほんっと当たり役だったよね。
 ハドソン夫人のお部屋………ううむ。謎ですね! 個人的にはワンコホームズの221Bなイメージがあるようなないような。って、ハドソンさんのお部屋の絵ありましたっけ? こちらもあやふやだなぁそういえば。イギリスにあるホームズミュージアムじゃ、ホームズの部屋を出てすぐの階段を上ったところにトイレがあったような記憶があったようななかったような? あれは、街中に汚物が落ちる仕組みだろうか? ううむ。そういえばお風呂の記憶がないけど、シャワー派だったのかなぁ? って、シャワーも記憶にないなぁ。あれ?
 Victorianなお風呂事情、調べてみたんですけどね。
 貴族だとかお金持ちだと地下室の使用人部屋の近辺にボイラーっぽい装置があるらしい。けど、普及はしなかったとか。やっぱり人力のほうがお金が安上がりらしくてね。レンジで湯を沸かす装置だそうですが。このレンジって何? って感じです。ともあれ、地下からタライに湯を入れて何往復も階段をするらしいですね。焚き火なのか、石炭なのか? おそらく煤煙とかあったし、石炭で湯沸かしなんでしょうねぇ。シャワーはあったらしいですが。だとするとやっぱり給湯システムの原始的なのはあったんだろうなぁと。でもって、トイレは上下水道完備だったらしいので、都市部だと水洗ありなのかなぁ? 人によってまちまちなのですけど、やっぱり容器に入れて庭に捨てるんだろうとは思うんですが。
 個人的にハイヒール、マント、シルクハットの始まりは汚物よけって聞いてちょっとテンションしぼんだりしたんですが。ハイヒールって、あれ履いてても、スカートが長いから裾がなぁ………と思うんですが、その辺はどうなんでしょうねぇ。そういえば、Victorianって、男の人もかかとある靴だったような記憶が?
 それでは、今日はこの辺で。
 おやすみなさい!
はぐれびと 4回目
 いつもご来訪&拍手コメントありがとうございます。レスは後ほど。

 4回目です。
 なんというかどこがジュネ? BLって話になりつつありますが。あと主人公が、どうもツンツンっぽい? 穏やかなフニャ〜っとしたタイプにしたかったのですが、背景が結構シビアだからか妙にツンで警戒心強いタイプななったような気がしないでもない。軌道修正かけれるならかけたいなぁ。

 以下。

*****






*** 大 蛇 ***







「なま………なのか?」

 黒く錆びた皿らしきものの上に乗せられた、てらりとした肌色の肉塊を行儀悪く指先でつつく。

「なまだよ」

 間延びした言葉と同時にそれがどうしたとばかりに小首を傾げる薄汚れ痩せた男に、苛立ちがこみ上げる。

 助けてくれた相手でさえなければ、似合わぬ態度はやめろ! と、怒鳴りつけていただろう。

「せめて、香辛料なり」

「それは贅沢というものだよ」

「ならば、水を………」

 後口を濯げれば、少しは堪えれるだろうか。

「注文の多い御仁だねぇ」

 言われるまでもなく、自覚はしていた。

 しかし、齧歯類か、爬虫類か、哺乳類かもわからない生(なま)の肉を口にしたことなど、彼のこれまでの人生でただの一度もありはしなかった。かろうじて、魚介類ならば、他国に招かれた時に晩餐の席に供されたことはあったが、それを口にするのだとて、彼にとって戦働き以上の勇気が必要であったのだ。

 苦笑を口角に刻み再び立ち上がった男の背中を見送りながら、

「干し肉なら、慣れているんだがな」

 問わず語りに独り語散ずにいられない。

 戦場にあれば、干し肉を齧ることは厭わない。なんとも思わない。しかし、生肉となると、話は別である。戦場で腹を壊すわけにはいかないのだ。

「そんな醜態など晒したくはないな」

 天井を見上げた。

 あいつたちは心配しているだろう。従者をはじめ部下たちの心配そうな顔を思い出す。

 まさか、この自分が裏切りに遭い、死線を彷徨う羽目になるなど。

 首謀者はわかっている。

 あの男たちには見覚えがある。

「好機とばかりに逸り、語るに落ちたか」

 ともあれ、あの男のおかげで生命を捨てずに済んだのだ。

 あとは、どうにかして砂漠を脱出することだ。

 ここが、死の砂漠、果ての砂漠と呼ばれる不毛の地であることは察しがついていた。

 が。

 水を欲して応えるということは、ひとまずこの場で渇く心配はないのだろう。

 それは僥倖に違いなかった。

「これでいいかなぁ」

 突然の声にはじかれるように震えた。

 気配を感じなかったのだ。

 骨が見えかねないほどに痩せたこの男を、盲目ゆえに侮ってはならないのかもしれない。まるで見えているかのように平然と歩いているではないか。

 気を引き締めなければ。

 そう思った彼は、その場で硬直した。

 水に満たされた器のせいだった。

 いっそそのまま崩れ落ちてしまうかのようななめらかさの黄金の周囲に丸く磨き上げられた貴石が埋め込まれた、杯の見事なまでの輝きが、彼の目を奪ったのだ。

 掌の中のずっしりとした重みは、間違いのない黄金作りだと、教えてくれる。

「これは………」

 上ずる声に、

「水だよ」

 こともなげな声が返る。

「この、杯は………」

「ああ、それ? あっちにいくつもあるよ」

 盲目であるゆえにわかっていないのだろうがこともなげに返されてきたことばに、俗な欲が煽られるのを止めることができなかった。

 空腹を、忘れていた。

 立ち上がった彼に気づいたのだろう。

「あっちはあぶないよ」

 気まずい思いに、

「奪るつもりはない」

 言わずとも良いものを。

 そびらを返して、彼は、洞窟の奥に向かったのだった。

 そんな彼を、男は、肩をすくめて見送った。

「せっかく助けたのに死なせるのも寝覚めが悪い………か」





 暗い隘路を進むと、ほどなく広い空間に出た。

 乾燥とは無縁な緑と水気とに全身が息を吹き返す心地だった。

 両手を広げて深呼吸を繰り返し、高い天井を見上げる。

 羊歯が垂れ下がり、苔が生す。そのどこかに穴が空いているのだろう。月の清しい光が差し込んでくる。

「ああ。泉があるのか」

 かすかな光を反射して揺れる水面が、美しい。

 男は、丈の短い草を踏みしだき数歩を進んだ。

 そうして、目を見張った。

 泉の向こうに、山となった黄金を見つけたためだった。

 王国の宝物庫など比ではなかった。

 いつから、どうやって。

 どうして、こんなところに。

 山と積まれた、金銀財宝が、けざやかな月の光にきらめく。

 彼の場所からでも、金銀はもとより、瑠璃、玻璃、蝦蛄、珊瑚、月の雫、金剛石、緑柱石、紅玉、黄玉、青玉などが見て取れた。考えるまでもなく、どれもが見たことなどないほどの大きさなのだった。しかも、見受けられるかぎりどれもがひとの手により磨き抜かれ、ものによっては、宝飾品となり、うず高い山をいくつも築き上げている。その中には、なぜなのか劣化したようには見えない綺羅の錦までもが幾反も転がっている。そうして、その上に、今最も彼が求めているものがあった。裏切り者に奪われた、愛剣の代わりとなるだろう、一振りの剣。遠目にも見事だと見えるその美しい鋼の色が、彼を手招くかの錯覚があった。

 これを目にして、魅せられないものがいるだろうか。

 ふらふらと、彼が再び歩を進めた。その刹那、彼は妙な皮膚感覚を覚え、もう一度足を止めた。ゆっくりと周囲を、注意深く見やる。

 あの男は、あぶないと言ったのだ。

 無視をしたことばが、今更ながらに思い出される。

 絹を裂くような。

 乾いた何かが地面をこするような。

 かすかな。

 小さな。

 音が、呼気が。

 呼気!

 振り返った彼は、そこに、黒い死の影を見出した。





 大人が三人は手を繋がなければならないだろうほどの銅の太さと、それに見合う以上の長さの大蛇だった。





 平らな頭部は威嚇の合図だったろうか。

 突き出した鼻の下から出つ逸つする赤い先割れの細い舌が、全身を覆ううろこ状の皮膚が、そうして、何よりも、興奮状態を表すと言われる溶け崩れる黄金のような二つの目が、彼の恐怖を煽り立てた。

 黒い大蛇の、蛇腹部分がうねり蠢きながら、己をより大きく見せようと高い場所へと頭部をせり上げてゆく。同時に響く怖気を掻き立てる音は、蛇腹が地面をこする音なのだろう。

 裂音が激しく、蛇腹が地面をこする音がゆるやかになってゆく。

 彼の鼓動はせわしなく、今にも止まりそうだった。

 全身をしとどに濡らす脂汗が、眼球を濡らし痛みを脳へと伝える。しかし、目を閉じることはできなかった。

 この巨大な爬虫類からひとが逃れ売る術などうあろうか。

 あまつさえ、彼は、騎士の命とも言える剣を失ったままである。

 泉の奥のあの剣がこの手の中にあれば。

 そうであれば、せめてもの活路を開けるだろうに。

 無力な人間でしかない己に、絶望のうめきを挙げる。

 それに、大蛇が目を細めた。

 それは錯覚であったかもしれない。

 しかし、絶望に囚われた彼にはそう見えたのだ。

 ああ。

 己の最後の仕事は、大蛇の腹を満たすことなのか。

 諦観にも似た絶望が、彼の膝を大地へと押し付けようとする。

 抗う気力が途絶えかけた時、極上の絹のような旋律が静かにゆるやかに、その場の緊張を震わせた。

 壊れかけの木偶人形のような動きで、彼は、声の主を確認する。

 彼の知らない未知の国の言葉で紡がれた、不思議な優しさと穏やかさの奥底にいくばくかの威厳が込められた、根源的な懐かしさを醸すその歌は、彼だけではなく、今にも最大限に競り上げた高みから彼を一飲みにしようと身構えた大蛇にも通じたのだろう。

 黄金の攻撃色が、いつしか、穏やかな黒曜石の色へと変貌を遂げていた。

 裂音が、止まる。

 ただ、蛇腹の立てる鳥肌の立つような音だけがかすかに続き、平であった頭部が通常の形態を取り戻していた。

 まるで犬のように、その頭部が男に擦り寄る。

 大蛇の口吻上部を、痩せた男の手のひらがさする。

 それに、黒曜石の瞳が眇められ、ちらちらと先割れした赤い舌が揺らめく。

「彼は僕が助けたからね。君の餌にされるとほんの少し、寝覚めが悪い」

 男の頬を大蛇の舌が舐める。

「腹をこわすかもしれないしね? まだそれほど飢えていないなら、もう少しお待ち。もうじきもっといい餌が罠にかかるよ。そっちで腹を満たすといい。君の子供たちにも充分に行き渡るはずだから」

 やわらかなことばとは裏腹に背筋に泡が立つような内容に、彼は、男を食い入るように凝視する。

 男の口角は笑みを刻んでいる。本心からのことばのようだった。

 まるで、本心からならば異種間であれ通じると言わんばかりに、大蛇はあの独特の音を立てながら移動してゆく。その際に、ちろりと彼を見たような気配があった。しかし、襲うことも、威嚇することもなかった。そうして、大蛇は、黄金の山のひとつに顎を預けて目を閉じた。そうするだけで、大蛇は見事なまでに闇と同化する。見事なまでの気配の消し方に、彼の背中が戦慄に粟立った。

「たすかった」

 力なく、彼は、男に頭をさげる。

 肩を竦めて了承の意を告げ、

「食べられなくてよかったね」

 今更ながらの感想を投げるようによこした。



***** これ、昨日書いたんですけどね。一度間違って全部消しちゃったので、記憶頼りに書き直したものです。
 結構しんどかった。
 これまでほとんど上書きしなかったことなかったので、全部書き直しって初めてやりましたよ………orz
 少しでも楽しんでいただけると嬉しいなぁ。

 「僕だけがいない街」9巻を読みました。番外編です。もう少し欲しかったな。ちょっとあれ? もう終わりって思っちゃった。で、小説版のセンセの話ってでてたんですね〜。読んでみたいような。みたくないような。賛否両論あるからなぁ。賢也くんがメインらしいんだけどね〜。主人公のキャラがちょっと違うってツッコミが結構あるからなぁ。センセも困難違う! って方もいるし。うん。センセ結構好きだったからなぁ………。どうしよ。高いのがネックだね。

以下レスです。

trap様。
 こんにちは〜♪
 エヴァは〜ね。まぁ仕方ないですよ。14歳ですから。うん。中坊だからねぇ………。×7が実際の精神年齢ですってよく言うしね。だとすると、まだ10になってないので、セーフ? まぁ鬱陶しいのは仕方ないです。
 面白い漫画と言いますと、これにちょこっとだけテイストが似た漫画が昔ありまして。
 「犬神」って、外園昌也さんだったと思われます。結構うお里は好きですよ。ロボットは出ませんが。生物の新たな進化の話です。ジュブナイルテイストですけどね。24って名前をつけられるシェパードもどきの犬神がいいやつですvv 主人公は高校生なので、うお里的にはオッケーなんですよvv 犬好きなら結構はまれそうですが、痛いところもあるのですよね〜。ううむ。ともあれ、今は漫画文庫であるかな? 結構古いから、古本かも。
 あとは、「こんな奴ぁいねぇ!」って4コマ漫画が結構vv うお里は「大人の〜」を読んでから、高校時代編を読みましたので、1〜3巻あたりはキャラが見分けつかなかったのがきつかったですが。それ以降は、ちゃんとかき分けできてるので、高校時代も楽しんでます。前も書いたけど安原くんと東国丸くんが押しvv あとは、柏原くんが不憫でねぇ。京子ちゃんも好きだがvv
 「アクノヒガン」1は面白かったんですけどね〜。4で打ち切りらしいので、2を読む気がイマイチ。
 「GIFT+ー」が結構面白いです。人間を生きたまま腑分けしますが。なんとなく、キャラが「雪人」のヤクザ側っぽい。まぁ、漢モノって感じじゃないですが。青春モノ? ミステリですけどね。一応医療かなぁ?
 こんなところでしょうか。
 それでは、明日から寒波が居座るようですので体調お気をつけてくださいね。
 おやすみなさい。
無題三回目
 いつもご来訪ありがとうございます。

 とりあえず無題の3回目です。が、動きを書くのが難しいです。特にゴロツキに絡まれるシーンとか、そこにわざわざ分け入るシーンとか。ううむ。難物。

 では、以下。







「我が君は、我らが光。我らが命! その記憶を無くされておられようとも、それが変わるはずもない。ようやく! と、我らが気付いた時には、我らに敵対する者らも動き始めていた。我らの唯一の希望は、お前が我が君のお側にいるというそれだけだったのだ」

「あの者たちですか」

 銀の瞳が眇められる。

「そうだ。俺だとて探したのだがな………キナイとクゥエンティンとの行方は知れぬままだ」

「見つからないとなると………」

 手袋に包まれた指先を頤に当てて、ビュートがつぶやく。

「封印されたか、囚われたかだな」

「逃げのびることができているといいのですが」

「さて」

 ギールが顔を持ち上げた時だった。

 馬が嘶くとともに棹立ちになる衝撃がキャビンに伝わってきたのは。

「おおっと」

 ギールが腰を浮かせる。

「なにごと」

 ビュートがドミニクがバランスを崩さないようにと支え直す。それに、

「止めろ」

 よく響くテノールが命じた。

「馬車を止めろ」

 紫紺の双眸がビュートを素通りして馬車の天井を見上げていた。その、いつになく焦点の定まった視線に、胸を突かれたかのように動きが刹那止まる。

「了解」

 面白いとでもいうかのような口調と同時に壁を通り抜けたギールに気づいているのかいないのか、ドミニクが上半身を起こした。

 その熱と重みが失われたのを名残惜しく思いながら、ビュートが先に降りる。

 ギールが置いた踏み台を使いビュートの差し出す手を助けにドミニクが石畳に降りた頃には、何が馬を驚かせたのか確かめるまでもない様相がそこには繰り広げられていた。

 どこかの路地から出てきたのだろう、破落戸(ごろつき)が何かを囲んでいた。もちろんそればかりではない。彼らは手や足を使って、格好の獲物であるらしいなにものかをいたぶっているのだった。

「閣下がお気にかけるようなものでは御座いません」

 くだらないと吐き捨てるビュートを、

「下がっていろ」

 無碍に切り捨て、歩を進める。

 コツリと、黒いステッキが石畳を打つ。

 つき従おうとするビュートに、

「お前はそこだ」

 鋭い制止をかける。

「止めろ」

 放たれた鋭い命令口調が、夜の闇を切り裂く。

 それは、男たちの動きを押しとどめる力を秘めていた。

 刹那凝りつき、ついでちらりと投げやった視線が、ドミニクを認めた途端、大きく見開かれてゆく。と、先ほどの鋭い命令口調を忘れたのか、何かしら良からぬことを思いついた証に、男たちの口角がもたげられてゆく。

 少々尾を引く甲高い口笛が三々五々に放たれ、

「お上品な坊ちゃんの見学するもんじゃございませんよ?」

 あからさまな嘲弄と共に、近づく。

「それとも、俺たちと遊んでくださるとでも?」

 ニヤニヤとだらしのない笑いを垂れながら、それまでの獲物には興味がなくなったとばかりにぞろりとドミニクを取り囲んだ。

 男たちの背後にうずくまる、ひとの姿をしたものが、石畳に黒い影を描く。

 それを視線で指し示す。

 一瞥で主人の命令を理解したのだろう、ビュートが静かに動き始めた。

 
 
無題二回目
 いつもご来訪アンド拍手コメントありがとうございます。レスは後ほど。

 ということで、以下、無題です。

*****







「ドミニク・アシュレイ・グランビル公爵閣下だったか?」

 確認するかのようなギールのことばに、

「なにか?」

 触れるなとも云わずビュートは問い返す。

「この髪、かつては黒かったろう?」

 おちゃらけたような方言まみれの口調を正す。

「当然です」

 諾なうことばがキャビンに転がり消える。

「光を覆う烏羽玉の闇」

 かつてのドミニクの髪の色を、ビュートが思い出したように擬(なぞら)える。

「それはみごとな、濡羽色でしたよ」

「だろうなぁ」

 どさりと重たげな音をたててソファの背もたれに体重を預ける。

「それがこないな白に変わるゆうことは、よほどの仕打ちか大病か」

 思い出したように方言が混ざる口調がどこか痛々しげに響く。

「あなたはいませんでしたからねぇ。まったく。不敬というにもほどがありますよ」

「どいつもこいつも!」

 付け加えられたいまいましげなことばは、

「おまんに似つかわしないことば使うなや」

「仕方ないでしょう! どれだけ私のはらわたが煮えくりかえったと思っているんですか! あなたも彼も、あの男さえ現れない! あれだけの血を! 涙を! 悲鳴を! 我が君が流す羽目に陥ったというのにっ。もうあのみごとな黒髪は、あの暴挙によって奪われたものと等しく、取り戻すことはできないのですよ。我が君であろうと、我ら四つたりの誰であろうとも!」

 絶望にまみれた叫びが音量を絞って放たれる。それは、向かう先を見出したことによってほとばしり出た魂の叫びだったろう。

「力を奪われてさえいなければ、せめてあなたがたのうちの誰かが駆けつけてくれていれば! 我ら四つたりが欠けることなく揃っていさえすれば!」

 ビュートの手袋越しの指が、力任せにギールの胸に突き立てられる。穿ってしまいたいとでもいうかのように、その思いの込められた爪がギリギリとギールの肌に食い込んでゆく。

「悔しいことに、私だけの力では、どうにもならなかったのですよ」

 ハッとばかりに自嘲混じりの音のない笑いを吐き出し、ギールから指を離した。

「あなたの血などに何の意味もありませんけどね」

 絹手袋のつま先をかすかに染めるその色に、秀麗な眉間に皺が刻まれる。手袋を脱ぐと、懐から新たな片方を取り出し、付け替える。

「今更なぜ現れたのです」

 髪と同じ銀色の瞳が刃の鋭さを宿してギールに向けられた。

「我が君の、ご自身さえも捉えかねていらっしゃられる望みを嘲笑うためですか?」

 ならば、容赦しませんよ。

 口角を持ち上げたビュートの顔は、まるで断罪の天使めいて見るものに芯からの震えを与えるものだった。

 眇めた金の双眸をゆるりと閉じて見開いたギールが、手を髪に差し入れて頭部を掻きまわす。喉の渇きをいなすための数度の空咳の後に、

「ようやくなのだ」

 胸元を開き、己の流す血を指先で確認するかのように拭い取り、ギールはいまいましげに、そう言った。

「我が君が血を流されたことは、我らだとて即座に感じた」

「ならば。約定を忘れたとは言わせませんよ」

「わかっている。先走るな。」

 ため息を吐き、眉間を指先で揉みしだく。

「邪魔が入らなければ、当時ともにいた我ら三たりだとて、おまえに遅れることなく馳せ参じたわ!」

 獣めいた唸り声が、その胸の内を言葉などよりもいっそ雄弁に物語っていた。


**** 引っ張る引っ張る〜。本題が遠ざかる。珍しく会話文多めです。とりあえず少しずつ溜めておいて、サイト更新用に回します。うん。更新順調ですか? とくるとちょっとあせりますからね。


 赤名脩さん? 「勇吾」の作者さんの「タナトスの使者」全4巻を読んでおりました。
 絵がね〜綺麗ですよね。拷問シーン? は辛いけど。男ばかりなのに微妙に色気があった京都編。しかもほぼ高齢者なのに。往年の名優とそのファんクラブの会長なヤクザの組長さん。組長さんヤバすぎですがな。背後から抱きしめますか。前からかな? ちょっと忘れてる。
 タナトス〜ですからね。日本タナロジー協会のエージェントが主役。架空の協会だと思いますが、自殺幇助が仕事です。はい。ただ、どうも打ち切りなんですかね? もう少しいろいろありそうなのに。残念。

 このあいだの大きな雷の日、第五ってばうお里解いたら抱きしめていてもプルプル震えていたのに、居間に行ったな〜と思ってると、祖母の足元でうずくまったり母の足元でうずくまったりして、最終的に定位置でうずくまってたそうです。
 これは〜守ってたのかな?
 だとすると、第五にとって、うお里って、守らなくてもいい人なの? それは、さみしいなぁ。

 と、ちょっとしょんぼりしたところでレスです。

trap様

こんにちは〜。
体調大丈夫ですか?
お熱とは。しんどかったと思います。お身体大切になさってくださいね。
寝冷えありそうですからね〜。
うお里はどうも膀胱炎? かも知れなかった昨夜です。ううむ。しんどかった。
それでは、拍手コメントありがとうございました。
 いつもご来訪ありがとうございます。


 散華月の続きです。相変わらずの引きなんですけどね。最近集中力がないので、一度にかける量が減ってますxx

 そんなこんなで、以下「幽鬼」。少々差別的な発言ありますが、フィクションですのでご容赦。

*****







 たすけて−−−と、縋った声に返されるだろうことばに、どれほどの期待を持っていただろう。

 一縷の望みと言ってもよかった。

 父親だけが、姫宮にとってはもはや唯一の救いだったからだ。

 だというのに。

 息を呑む気配を耳元に感じた。

 きっと、自分を救ってくれる。

 その願いは、しかし、新たに聞こえてきた声に断ち切られることとなった。

 電話の向こう、父親の背後にいるだろう人物の声は、姫宮の記憶にない女性のものだった。

 初めて聞く声。

 誰だ?

 やけに親しげな、声。

 なんで?

 電話相手のことを尋ねる声が、耳にねばりつく。

 心臓が歪んだような鼓動を刻む。

 胸元を片手を受話器から外して掴んだ。

 重い。

 そう感じた。

 受話器が、とても重かった。

 受話器をきつく押し当てていたのだろう耳が、痛みを訴えてきた。

 ずくずくと、熱を持つ痛みに、目の前が、赤く染まったような錯覚があった。

 父親が何かを返し、それに答える女の声が聞こえる。

 不意に女の声が、途切れた。

 スリッパの音が荒々しく遠ざかって行く。

 どこかのドアが開くと同時に、笑い声が聞こえてきた。それは、居間にあるテレビの向こう側からの声だったろう。しかし、まるで姫宮のことを嘲笑っているかのように聞こえたのだ。

『判っただろう。俺には新しい生活がある。お前に新しい生活があるようにな』

 何を言っている。

 痛い。

 何を言っているんだ?

 冷たい汗が、こめかみを伝う。

「どうして………」

『俺の息子がゲイなわけがない』

 息が止まる。

『同性に抱かれるだなど、吐き気がする』

 違う! と、叫びたかった。

 好き好んで男に抱かれたわけじゃない。

 抱かれているわけじゃない。

 逃げたい。

 どうしても、逃げられないのだ。

 だから、助けて欲しいのだ。

 父親が帰国しているのなら、自分もまた日本に戻りたいのだ。

 できるなら、そこで、以前と同じ生活を送りたい。

 それだけなのだ。

 しかし、

『そんな、得体の知れない息子など、俺の子供じゃない。たとえそうであったとしてもっ!』

 汚いものを吐き捨てるような口調だった。

 いらないのだと。

 不必要なのだと、言外に投げつけてくる礫だった。

「とうさん………す」

 縋る思いだった。

 捨てないで−−−と、まるで恋愛もののドラマや漫画のようなことばがあふれ出ようとしていた。

 それなのに。

『お前は、姫宮倫太郎じゃなく、リン・エセルバートだろう。俺は、君の父親じゃない。間違い電話をよこすようなことは二度とするな』

 敢えて間違い電話だと、そう断ずる声で鋼のような拒絶を前面に押し出して、通話が切れる音がした。

 それは、まるで、鋭く研がれた刃を持つギロチンが親子の絆を容赦なく断ち切る音のように聞こえた。

 心が、断ち割られる。

 そんな、錯覚が姫宮に襲いかかる。

 涙は出なかった。

 全てが、粉々に砕け散った。

 これまでの十八年が総て無に帰したのだ。

 こそとも音のない一時(ひととき)が、過ぎてゆく。

 と−−−−−−。

「うわああああ!」

 絶叫が姫宮の口からほとばしった。

 同時に、まだ耳元にあった受話器を力任せに投げ捨てる。

 持ち重りのする電話器が螺旋を描くコードに続く受話器に引きずられる。しかしそれだけだった。

 姫宮の眉間に皺が寄る。

 両手で筺体を掴み、振りかぶって投げた。

 壁に当たり、筺体のプラスチックの部分が砕け破片をぶちまける。

 荒い息を肩で吐きながら、姫宮は俯いた顔に手を当てた。伸びた前髪が、視界を塞ぎ、不快だった。

 クツクツと、まるで狂人めいた笑い声を喉の奥に響かせながら、今度は首を仰け反らせる。

 哄笑が尻窄みに止(や)まった時、姫宮の光を無くした双眸が壁際に転がる電話器を捉えた。

 乾ききった眼差しに失せた光が、蘇る。その光が何の故なのか、恐らくは姫宮本人にすら判ってはいなかったろう。

 ギリギリと、奥歯を噛みしめる。

 涙は出なかった。

 散らばった黒い破片に何を感じたのか、狂ったように、姫宮は手当たり次第に物を壊はじめた。







「なんで………」

「おやじ」

「なんでだよ………」

 痙攣する横隔膜に、しゃくりあげが止まない。

 不思議と涙がこみ上げてはこなかった。

 なぜだかわからない。

「さむい………」

「なんでっ」

 代わりのように、汗がしたたり、やまない。

 手で汗を拭い、首を横に振る。

 それでも、汗が引くことはない。

「さむい」

 パジャマの前を掻き合わせるように握り締めた手に、チャラリと金属の感触が触れる。

「………ああっ」

 全ての元凶。

 あの出会いさえなければ、今の自分はこうではなかった。

「こんな」

 こんな様ではなかった。

「こんなっ!」

 衝動にかられるまま、引きちぎり、投げ捨てる。

 なぜ、あれを、未以って外さずにいたのか。

 そう。

 たとえあの男が「つけていろ」と言ったからであっても。

「っ!」

 未だ引かない汗に狭まる視界に、何かが見えていた。

 姫宮の腰が引ける。

 何か。

 いや、違う。

 誰か−−−だ。

 そう。

 あの男。

 自分をこんな風にした。

 死んだはずの。

 腕に、膝に、あの血の温もりとあの命を失った肉体の重みが蘇る。

 同時に、鳥肌が立つ。

 恐ろしさに、全身が震えた。

「オースティンっ!」

 叫んだ途端、視界に暗く紗が下りた。

 薄暗くなった室内は、姫宮の手で無残にも破壊されたものが散らばっている。

 その壁際に佇むのは、間違いなく、オースティン・エセルバートだった。


***** 久しぶりにオースティンの名前を出したのですが、忘れてました。まるっきり。ううむ。
はぐれびと〜3話目 死神〜
 いつもご来訪&拍手コメントありがとうございます♪ レスはのちほど。

 懲りずに書いてます。
 かけるのはまだいいことですよね〜。 
 たとえ時間かかっても、ちっくりちっくりでも。
 昔の勢いないのはどうにも、歳のせいです! 絶対。

*****



*** 死 神 ***



 耳を聾する風の唸りは、聴覚を麻痺させていた。
 身を打ち据える細かな砂礫の痛みも間断なく、ああ、死ぬのだなと、思った。
 それは、あまりにも明確な思考で、もはや自分はそれから逃れるすべがないのだと、諦観以外のなにものでもなかった。
 だから、何か砂礫よりも大きなしかし柔らかな感触のものに頬を打たれ、音とも呼べないような風の唸りよりも穏やかなものが耳から脳へと染み入ってくることを認識するのに時間がかかったのだ。
 眉間にしわがよる。
 すでに死神はそこまで訪れていて、己がその手を取るだけでよかった。
 手を取れと。
 黒い布を頭からかぶった忌まれる神は、手を伸ばしていた。
 それを選べば、己は諸々のしがらみから解放されて、自由になれる。なによりも追い求めた自由。たとい、それが死というものであったとしても、現世におけるあらゆる呪縛から逃れるすべすらない不自由な己にとっては、自由と同様のものとしか思えなかったのだ。
 なんとはなくほんのりと暖かなものに包まれてるような感触は心地悪いものではなかったが、背中の下に当たる固い感触が気に障りはじめた。
 生温かな何かが口内を満たした気がした。ほんの少し塩っぽいなにかは、どこかで口にしたことがあるような味だった。それが、ぬるりとあまり心地よくない感触を伴い喉を滑り落ちてゆく。
 吐き出したい。
 思った時には、胃の腑へとたどり着いたのか、酒精にもにた熱を発する。そこから焼けただれるかと思うような熱だった。
 こうなっては、意識も明瞭になる。
 全身を苛む苦痛が生を実感させて、どうしようもない生へと引きずり戻されたのだという、腹立たしさが先にあった。
「なぜ捨て置いてくれなかった」
 拒絶の言葉は、しかしまともなことばとならなかった。
 だから、目を開けた時、どうしようもなく、不機嫌だった。
 薄らぐらいそこは、どうやら洞穴のようなところであるらしかった。
 喉やら肺やらがひりひりと痛んでならなかったが、
「すておいてくれ」
 ゆっくりと、もう一度ことばにしてみた。
 顔を覗き込んでくる黒いものが、なにやらひとのものらしいと思われたからだった。
 ざりざりと耳障りの悪い声だったが、どうにか理解できることばとなったのだろう。
「助かった命を無座と捨てたいと?」
 耳障りの良い声だった。
 違えようもなく男の声であるというのに、野卑な印象の微塵もない、最高級の絹のような声だったのだ。
 それは、感謝のことばを述べることもなく邪険なほどに拒絶しかことばにしないものの態度を微塵も気にしてはいないかのように聞こえた。
「死にたかったのか?」
 助かったことを喜ばない相手の態度に途方に暮れているように、その声は聞こえた。
「そうだっ」
 そう。
 死にたかったのだ。
 自由に。
 すべてのしがらみを断ち切りたかった。
 死へと至る道筋が、苦痛以外のなにものでもないと経験してしまっては、もう一度と、死を乞うことさえもできないではないかという、身勝手な怒りだった。
 そう。
 恐ろしい。
 あの、戦場での狂騒を過ぎた今となっては、血の滾りさえも冷め果てて、再びの戦を望むことさえ恐怖以外のなにものでもないと思えたからだ。
 生き延びた今となっては、そうあってはならないのだと、己の立ち位置を呪う以外にはもはや、己を助けたものを糾弾する以外に道はないように思えたからだった。


 薄暗い洞窟の中では時間の感覚さえもがわからない。
 目の見えない貧弱な体型の哀れな身形の男は、なおのこと。
 しかし、
「腹が減った」
 哀調を帯びた歌がぴたりと止まった。
 男の美しい声でつむがれるそれは、不思議な異国のことばの連なりだった。
「死にたかったのでは?」
 嫌味などではなく、心底不思議そうに、男が首をかしげた。
 愛らしい女性がすれば似合いなそのしぐさは、蓬髪も薄汚れた男にはあまりにも不似合いにすぎて、意識せず鼻柱に皺が寄る。
「今一度あの経験をしろと?」
 助かれば、今一度死のうとは思えない。
「そういうものなのか?」
「そういうものだ」
「ふぅん」
 幼子が漏らすような合いの手のようなそうでないような声に、苛立つ。
 目が見えずにこの砂漠にひとりいるこの男こそ、幾度も死に瀕しては生へと立ち戻っているのではないか? その経験を覚えていないことなどあり得るのか?
「そういうものなんだ」
 うんうんと、首を上下に振りながら、男が立ち上がる。
 目が見えないとは思えないほどの滑らかな動作で洞窟の奥へと向かうその背中を見やりながら、変な男だと、何度目かに思った。


***** どうにも、一人称っぽい三人称で申し訳ないです。はい。まだまだ序章っぽいしなぁ。反省。最近ゆっくりじっくり書こうと考えてるのでお許しを。


 んでもって、ここのところのだいごんは〜やっぱり甘えん坊将軍です。
 なんというか、ほんとうに、うお里大好きっ子だなや。
 しかも、うお里と同じ部屋にいれさえすれば満足らしいし。
 これ、ほんとうに、犬?
 猫っぽいんだけどね。
 猫飼い歴ながいうお里と一緒に猫と一緒に暮らしてたから、どうしても猫に似ちゃうのかな? 可愛いけどさぁ。


 昨日の青空レストラン? とかってTVプログラム。香川は東かがわ市が舞台でしたね。いきなり高松に飛んでましたがvv 宝ってお菓子屋さんは高松だよね〜。古い方の店舗は行ったことある気がするけど、移転しての新店舗はいってない気がする。たしか大きなイチゴの苺大福が人気だったような?
 ちなみに、和三盆屋さんもたまに行ったりしてたところだった。
 しかし、和三盆の作り方、初めて知った。
 高いの納得だわ!
 白下糖はさぬき市でも作ってるところありますけどね。和三盆はないな。

 んでもって、日本のお城のテレビ番組、名前忘れたけど、おお! 松本城天守! ここは行ったぞ、うお里〜と思いつつ見てたvv ある意味聖地巡礼的に、本題は家族旅行で長野に行ったのだよね〜そういえば。で、松本城と鬼無里だけは行きたいとvv 松本城は「炎のミラージュ」vv 鬼無里は「封殺鬼」だったなぁ。


 カタルシス〜とかいってましたが、無理だなぁ。特に前向きカタルシスはダメだった。うううう。

 なんか、とある漫画雑誌を読んでたのですが。
 どうにも、作者のあざとさが透けて見えて、無理だったxx
 なんでしょうねぇ。
 人の役に立つのが好きなのか、中心でワイワイやるのが好きなのか。ようするに目立ちたがりのリーダーシップのある子が、周囲とのすれ違いの末に仲直りして涙する話なんですけどね。
 ううむ。
 まぁ、うお里には書けない話な自覚はありますが。書く気もないけどxx
 いい話にしてるけど、なんだかなぁと。
 母親は亡くなってるので、父親が再婚相手を連れてきて再婚するんだけど、なんか、頑張ってる義理母だったのが、主人公がやった方が〜って任せきりになって、挙句主人公が切れると父親が手を挙げるだけど最後心が通じ合ってハッピーエンド………ううむ。まぁ普通なんだろうけどなんだろううお里的にはムカムカする。
 うお里が歪んでるだけかもしれませんが。
 今更こんな話読んでもなというのが本音なんね。あああ。


 そんなこんなで、レスです。

 trap様

 きゃ〜いいんですか? すっごく嬉しいんですが、いつもいつも申し訳ないです。見かけたらよろしくお願いします。
 まだあれ、見れてないのに〜。録画していただくなんていうお手間とらせててまだ見れてなくて申し訳ないです。
 バーナビー警部って、年取ると味わいがあっていいですよね〜。好きですわ。
 確かにロクでもない男ばっかりな上に、女性もすごい人が多いっぽいんですが。ラストのおばあさん、怖いxx 確かに怖い。あれは〜なんというか、日本とは違う怖さですよね。日本の旧家で嫁遅れのお嬢さんとかっていうのも題材的に怖い感じで使う場合がありますが、それとは違った感じですよね。同じく、因習やらお家大事とかあるのに。不思議。お嫁さんほんと、かわいそうです。幸せになってほしいなぁ。でも結構忌まわしい記憶があるのにお家が好きでそのまま暮らすってパターンも見かけるのがイギリスな気がします。
 なんでしょうね、雰囲気ですかね〜。
 イギリスって言うのがいいのかなぁ。
 なんというか、イギリスって変に魅力的なんですよね。
 それでは、いつもありがとうございます!
 おやすみなさい。
ぶち切り
 いつもご来訪ありがとうございます。

 いや〜ストレスマックスぶち切りかもしれないうお里です。
 いえ、生々しくて申し訳ないですが。
 今朝、もしかしたら、下血したかもしれません。まぁ、女性週間かもしれないんですが、まだ確定できていない。結構鮮やかな血だったしなぁ。ま、ストレス溜まってるからなぁ。血尿ならまだ納得なんだけどね。いきなりそっちかorz

 そんなこんなで、ストレスを登場人物にぶつけていじめてしまいました。ごめんね〜。
 しかも随分前に完結したはずの”in the soup”です。
 もう覚えてる人いないだろうなぁ。
 これのオリジナルバージョンで主人公をいじめてしまった。
 そんなわけで、まぁ、名前が変わってますが、そういやそんな話があったなって程度で。
 一応ここにアップしときます。

*****






*** Last Cognition ***







 音が先だったのか。

 臭いがか。

 におい。

 決して”匂い”などではなく、”臭い”だった。

 その臭いが何かを呼び覚ます。

 そう。

 音と臭いのふたつが合わさることで、とても不快な、恐ろしいものを呼び起こした。

 それは、オレの心を揺り動かすものだった。

 だから、オレは目覚めたのだろう。

 けれど、それは、決して、いい目覚めなどではなかった。

 白くうすぼんやりとした視界は痛みを伴い、見えているのかどうか不安を覚えるものだった。

 視界を圧倒する光の洪水が、オレの目を痛くさせているものの正体だったろう。

 それは、とても。

 とても久しぶりの光のように思えた。





*****





「髪を整えてくれ」

 どこか空虚な雰囲気の漂う室内だった。

 四十に手が届くだろうか、苦みばしった美貌の男が窓辺に佇んだまま指示を下した。

「かしこまりました」

 応えるのは三十は過ぎているだろう年頃の男である。準備されたテーブルの上、敷かれたクロスに揃えられたのは、散髪用の道具に見える。

 黒漆の鈍い光を宿す鏡台に向かうように配置された、鏡台と同じ材質の椅子に座るのは、褐色の髪のまだ若い、少年のような若者だった。うなだれ気味の顔は半ばを前髪に隠され、その奥で薄く開かれた瞼の下、黒い瞳には生気のかけらすら伺えなかった。

 美容師が若者にケープをかけ、ブラシが、櫛が、小気味よく髪をくしけずってゆく。

 肩に掛かるほどに伸びた褐色の髪は思い思いの方向に飛び跳ねている。

 エンリケは窓辺からそのさまを眺めていた。

 自然、胸の前で組んだ腕はそのまま、美容師の動きに連れてゆらゆらと揺れる湊を見つめる。

 痩せた。

 それが、正直な感想だった。

 ケープの下に隠された湊の肢体を誰よりも、湊本人よりすらも知っているのは、ほかならぬ彼だけである。

 今朝方まで彼の腕の中にあった、シルクめいた肌触りの体毛の薄い皮膚の手触りを思い返す。

 湊をエンリケの実の父から奪い、二年が過ぎようとしていた。

 骨が目立つようになってきた四肢は、決して抱き心地が好いとは言えないものではあったが、それでも、エンリケにとってはこの上なくかけがえのないものであったのだ。

 失いたくない。

「誰にもわたしはしない………」

 思わず溢れたことばに、美容誌は気づいてはいない。ただ熱心に湊の髪を切っているだけである。

 本当ならば、自分で整えたいところなのだ。

 いつも、思う。

 しかし。

 残念なことに、エンリケにはそのスキルがない。

 一度だけ、どうしても他人に触れさせたくないという思いが高じ、湊の伸びた前髪を整えようとして、その額を傷つけそうになった。

 それ以来、湊の散髪は美容師に任せるようにしている。

 わずかの傷さえも、湊に負わせたくはなかったのだ。

 腕は保証付きである。

 身元も確かである。

 しかし、それでも、ふたりから目を離すことはできないでいた。

 湊を見、その髪に、頭に、触れている。湊の甘やかな体臭を身近に嗅いでいるのだと思えば、どうしようもない嫉妬が鎌首をもたげるのだ。

 それだけで、その目をえぐり、腕を断ち、鼻を削ぎ落としたいという思いが湧いてくる。

 この狂うほどの感情に、目が眩む。

 どうして、彼なのか。

 なぜ、湊でなければならなかったのか。

 父親に対する意趣返しであったのなら、もしくは、父が愛したものを自分も愛したいというだけの思いであったのなら、父の死と共にこの想いは消えていたかもしれない。

 しかし、そうではなかったのだ。

 なぜなのかは、わからない。

 かわいそうだと、柄にもなく感じたことが、はじまりだった。

 湊がいなければ、彼を哀れと思わなければ、今の自分はいない。

 恋に狂った、愚かな男は存在しなかった。

 新世界の暗黒、その帝王と呼ばれる己は、存在しなかった。

 そう。
 ふっと、エンリケの口角が持ち上がる。

 まるでガラス越しの陽光の中に落ちたひとしずくの闇めいたその笑みを、美容師が目にすることはなかった。



 すき挟みがリズミカルな音を奏でる。

 たゆむことないその音が、ふと止まる。

 窓枠に背もたれていたエンリケが湊から視線を美容師へと移す。

「終わったのか?」

「いいえ。少し確認を願います」

 すき挟みをテーブルに置き、何かを思案するように手を彷徨わせる。

「珍しいな」

 いつもは何事もエンリケに要請することなく仕事を終える美容師の要求に、窓枠から背中を離し、近づく。

「こちらなのですが」

 湊の右肩寄りへと移動し、彼のうなじの毛をかすかに掻き上げ、エンリケを促す。

「なんだ」

 カチャリと耳に届いた金属音の孕む剣呑さに、エンリケが素早く態勢を返しかけ、その場に縫い付けられる。



 軽い、冗談のような破裂音が響いた。



「っ」

 衝撃に、声が喉から押し出される。

 即座に身を翻さなかったのは、すぐそこに、湊がいるからだった。

 美容師の、彼の右肩を貫いた拳銃を持つのとは逆の手には、白く輝く剃刀が握られていた。

 そうして。

 剃刀の刃は、過つことさえなく、湊の喉元に当てられていたからである。

 エンリケの常には理知的な双眸が大きく見開かれる。

「動かないでください」

 懇願するかの声だった。

「そうでなければ、この少年の首を」

 泣きそうな声で言い終えることはできなかった。



「湊さんっ」



 その瞬間を、エンリケがどんな表情をして迎えたのか。

 暗黒の帝王と呼ばれるその男の泣き笑いのような表情を唯一目撃したこの美容師が、その短い一生でそれを忘れることは不可能であったろう。

 無くしたものを思いもよらぬ場所で取り戻すことができたかのような。

 また、それをすぐに失うのではないかと危惧するかのような。

 その喪失を現実のものとして捉えざるを得ない状況を理解し愕然となっている男の表情を。



「湊さんっ、動かないでください」



 また、その男の絶望と希望とが入り混じった悲鳴のような声を。



 そうして。



 そうして、男の絶望こそが現実となった、その刹那を。







*****





 とても眩しくて、顔を背けた。

 刹那、冷たい熱のようなものが喉元をかすめた気がしたが、気にしなかった。

 光から目を逸らした先に、彼がいたからだ。

「湊さんっ」

と。

 青ざめた表情でオレを諌めるその男が誰か。

 ほんの少しだけ老けたような気のするその顔に、あの男の面影が被って見えた気がした。

 認めた途端、血が引く心地がした。

 あの男は、死んだのだ。

 オレを濡らすあの男の血の温かさを、命を失くしてしまった器の重さを、覚えていた。

 オレは、刹那もかからず、全てを理解していた。

 なぜだろう。

 オレは、これまで、自分自身で意識を閉ざしていたのだ。

 恐ろしいモノ全てから逃げ出してしまいたくて。

 逃げていればそれでいいと、己を欺瞞で包み込んで。

 それで全てが解決するはずもないというのに。

 わかっているからこそ、即座に、血が冷たくなった。

 あの男との最後の時に、俺の心にあった形にならない感情を思い出す。

 それは、目の前の男に対するものと重なるようなもので。

 いつだったか、消えてしまったオレの片割れの感情の名残なのかも知れなかった。

 けれども。

 オレだとて、決して嫌いではなかったのだ。

 彼がいてくれて安心できた。

 熱帯魚を眺めながらいつしか眠ってしまったあの夜、崩壊の始まりだったろうあの時の静謐さを、思い出す。

 彼の肩に頭を預けて、頭を撫でてくれる手の感触にこの上ない安堵を覚えていたというのに。

 なのに。

 オレを裏切った。

 彼もまた、あの男と同じものだったのだと。

 オレをただ、女のように抱きたいと思っていたのだと。

 あの時の絶望を、彼は、知らないだろう。

 どれほど言葉を尽くしたとて、理解できないだろう。

 理解されない絶望があることを。

 最後の最後で、彼を嫌いきることができないでいるオレの、理解できない感情を。

 それは、あの男に対するものと同じようなもので、オレを苦しめる。

 怖くてたまらない相手なのに。

 嫌ってしまうことさえできない理不尽なオレ自身の感情も、オレを苦しめる。

 愛してなどいない。

 決して。

 愛なんかじゃない。

 それなのに。

「湊さんっ、動かないでください」

と、なおも畳み掛けるように言い募ってくるエンリケの言葉に、オレはようやく状況を理解する。

 ささやかなものの神経をささくれ立たせる間断ない痛みの原因が何なのか。それが未だにオレの首を捉えていることを。

 エンリケの右肩から滲む血の赤がどうしてなのか。

 オレの背後に、オレの喉に刃物を押し当てて引き寄せている男がいることを。

 男の逆の手が握る拳銃がオレの意識を目覚めさせたことを。

 この国にさえ来なければ、おそらくは一生知らずに済んだろう、鉄の塊がひとを傷つける時の、音と臭い。

 それがオレを、オレの逃避を、粉々に打ち砕いたのだ。



 なぜだろう?



 目覚めなければ、エンリケは死んでいただろうに。

 あの男と同じように、血にまみれて、魂の入れ物だけを残して。



 なぜだろう?



 イヤだと、殺されてほしくないと、思ってしまうのは。



 震える銃口が、エンリケを捉えて離さない。

 オレの喉元には剃刀の刃が当てられたまま、剣呑に光っている。

 とてもうるさく、オレの心臓が鳴っているのがわかった。



 少しでも動けば、多分−−−−−。

 それがわかっていても、オレは。

「湊さんっ」





*****





「湊さんっ」

 エンリケの悲鳴染みた叫び声が、部屋を弄するほどの大きさで放たれた。

 動くなと。

 懇願したというのに。

 なぜ。

 両の目から涙が溢れていることに、エンリケは気づかなかった。

 この自分が、拳銃を隠し持っていないはずがないではないか。

 それとも、世界に冠たる平和な国で生まれ育った湊には、思いつくことではなかったのか。

 自分はただ、美容師が湊を傷つけることがないようにと、ただそれだけを願っていたというのに。

「どうしてです」

 わずかの逡巡すらなく美容師を撃ち抜き、エンリケが湊を抱き寄せる。

「どうして私をこんなにも苦しめるのです」

 己がどれだけのことをこの少年に強いてきたか、自覚していてさえ糾弾せずにはいられなかった。

 溢れていた涙が、少年の頬を濡らす。

 痛々しいまでに大きく開いた傷口が、エンリケの視界を朱に染める。

 耳障りの悪い水音をたてて、湊が口を開いた。

「おあいこ………だなぁ………………」

 痩せた手が、エンリケの頬に血の跡を残して滑って落ちた。

「おあいこ? そんなはずないじゃありませんか!」

「目を開けてください。開けなさいっ」

 とりすがっても、振りたてても、もはや、愛しいものは目を開けることはない。

 わかっていて、止めることができなかった。







 長く感じながらほんの数分もない間の出来事に、遅ればせながら駆けつけてきた家人が見たものは、狂ったように湊を掻き口説くエンリケの姿だった。







*****とまぁ、これでおしまいなんですけどね。
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